息を呑むユンジェの傍で、カグムが舌を鳴らした。彼は向こうで指揮を取っている、近衛兵のチャオヤンを確認すると、面倒で嫌な奴が来たと奥歯を噛み締める。

「相変わらず、先の先まで読みやがって。チャオヤンめ」

 どうやらカグムはチャオヤンのことを知っているようだ。あれを相手にするのはごめんだと言って、みなに走れと号令を掛けた。

 火矢が雨あられのように降ってくる。
 それらは獲物の人間を当てるためではなく、暗い視界を照らすための明かり代わりであった。
 ゆえに無差別に矢が降ってくる。どこに降ってくるか、予測も立てられない。

 ユンジェは懐剣を抜くと、ティエンの後ろに回り、岩場まで走るよう彼の背を押して、降ってくる火矢を薙ぎ払う。
 大切な兄には傷ひとつ付けさせない。強い気持ちで、矢を叩き落としていると、向こうの岸から厳かで、凛々しく、透き通った声が命じてくる。


「リーミン、戻りなさい」


 ユンジェは畏れを抱いた。大きく目を見開き、逃げる足を止める。

 ゆるりと振り返れば、指揮を取っているチャオヤンの隣に、第二王子セイウが現れる。揺らぐ火矢の炎に照らされるかんばせは美しくも冷たい。その炎は、彼の身につけている麒麟の首飾りすら妖しく魅せる。

 セイウは不敵な笑みを浮かべた。
    
「私がいつ、傍を離れろと命じましたか? 戻りなさい。貴方はセイウの血を飲んだ者。服従を示した者。懐剣となった者ですよ」

 恍惚にセイウを見つめていたユンジェは、踵を返して岸の方へ向かう。

 頭は真っ白であった。いや、頭は真っ赤であった。いや、真っ黒であった。思考は一色に染まっていた。何も考えられない。
 とにかく、戻らなければいけない気持ちに駆られた。



「セイウ――っ!」



 走るユンジェの真横を、鉄の鏃がついた矢が飛んでいく。
 それは岸を渡り、セイウの首に下げている麒麟の首飾りを射た。分厚い錫で出来た麒麟に弾かれ、矢は音を立て、地面に落ちる。

 目の当たりにしたユンジェは正気を取り戻し、慌てて足を止めた。チャオヤンや兵がどよめき、身の安否を確認する中、セイウは細い眉をつり上げる。

「久方ぶりに顔を合わせたと思ったら、早々に『骨肉の宣言』を頂戴するとは。あまりにも愚かですよ、ピンイン」

 王族に与えられる麒麟の首飾りを疵付ける行為は、持ち主に敵意を向けていると、態度で宣言しているようなもの。
 とりわけ親兄弟で行われることが多いので、その行為は『骨肉の宣言』と呼ばれている。

 ティエンはセイウに敵意があると、態度ではっきりと示したのだ。宣言した本人は、構えていた短弓を下ろし、口角を持ち上げた。

「これはたいへん失礼致しました、セイウ兄上さま。本当は、そのお美しい顔を射たかったのですが、手元が狂ったようで」

 あからさまにセイウを煽るティエンは、敵意を隠しもせず、「必ず亡ぼす」と吐き捨て、ユンジェに戻って来いと声音を張った。
 それに導かれ、ユンジェは彼の下に戻ると、岩場へ逃げ込む。

 しかし、セイウから離れるだけで心臓が鷲掴みにされていくような、そんな気持ちになった。怖い。恐ろしい。あの男に逆らうことが、とても。

 大きな岩の陰に身を隠してもそれは続いた。
 どうにか正気を保とうと、己の名を口にするが、それは『ユンジェ』ではなかった。何度繰り返しても、『リーミン』であった。それが恐ろしかった。

「俺はリーミン。違う、リーミン。あれ? リーミン……なんだっけ。俺ってなんだっけ」

「しっかりしろ。てめえは、クソガキのユンジェだろうが」

 ハオに言われ、そうだ、そうだよ、と返事する。

「そ、そう。リーミン。俺はリーミンだよね。リーミン。俺はリーミンだよ」

「クソガキ……くそっ。主従の儀ってのは、本気で名前を奪っていくもんなのかよ。さすがに、えげつねえぜ。これ」

 ユンジェの隣では、ティエンとカグムが口論をしている。