麻衣に袖を通したユンジェは、新しい頭陀袋に着ていた衣と道具を詰めると、間諜の案内の下、都の川に浮かぶ荷船に乗り込む。
曰く、夜明け前に紅州と青州を繋ぐ関所を通ってしまうらしい。
けれども通る所は、地上の関所ではなく、陶ノ都を流れている川を利用した関所だそうだ。
それは青州まで流れており、荷船の通り道となっている。
地上の関所と違い、監視の目が甘く、夜になると水門が閉じられ、誰もいなくなるそうだ。
馬と違い、荷船は持つ者が限られてくる。ゆえに甘くなるのだろう。
間諜達は通る荷船に合わせて、水門を瞬きの間、開けてくれるという。客亭襲撃の騒動で、王兵達も混乱している。川は通りやすいのだとか。
しかし、それでは馬を失うことになるのでは? ユンジェの疑問に、カグムがこう答えてくれた。
「俺達が荷船で関所を通った後、商人になりすました間諜達が、地上から馬で関所を通る予定だ。このやり方なら、足を失わずに済む」
なるほど。地上と川、両面から通ったのち、青州で合流して馬に乗るという寸法か。確かに、その方法なら足を失わずに済むだろう。
森育ちのユンジェは、初めて乗る船に少々心を躍らせていた。
身に迫る危険や恐怖は十二分に理解しているのだが、やっぱり初体験というものは好奇心が出てくるもの。
物に乗って水の上に浮かべる、だなんて魅力的ではないか。
小船ではあるものの、しっかりと水上に浮かぶ乗り物に飛び移り、その乗り心地を楽しむ。
船が浮き沈みをしたり、左右に揺れたりするので、とても楽しい。
「こらこらユンジェ。遊んでないで、ちゃんと隠れろ」
苦笑いするカグムに注意され、ユンジェはいそいそと荷を覆う布の下に潜った。
荷はどれも塗料が詰まった樽や箱であった。荷船が進み始めると、それは小刻みに揺れる。外の景色が見られないのが、いたく残念に思う。
「ティエン? どうしたんだ」
隣でティエンが身を小さくして口元を押さえている。気分でも悪いのか、と聞くと、彼は声を窄めて答えた。
「船は昔から苦手なんだ。三度目の経験だが、やはり揺れるな」
「ユンジェ。気にするな。体の弱いティエンさまは、船酔いしているだけだ。とてもか弱い方なんだよ。弱々しい方なんだよ」
嫌味ったらしく鼻を鳴らすカグムは、先ほどの口論を引きずっているらしい。弱いを三回も繰り返していた。
それを聞いたティエンは、ぎっと男を睨んだ後、ユンジェに船は必ず克服すると宣言した。弟を守れるくらいには、強い男になると意気込んでいる。
「強くなって、ユンジェのように不意打ちの上手い男になってみせるよ。力では勝てずとも、頭で勝ってみせる。相手の嫌なところを突き、打ちのめしてみせるよ」
「そうそう。弱い俺達の武器は不意打ちなんだから、そこを上手く使わないとな。卑怯は武器だぜ。もし、でかい図体の敵がいたら?」
「単体なら視界を奪って、背後から殴りかかる。急所の頭や頸椎を狙う。複数なら、ばらけさせる」
両手を握って得意げな顔を作るティエンは、少しだけ気分が良くなったようだ。硬かった表情が緩んでいる。
対照的に、聞き耳を立てているカグムとハオがしかめっ面を作っていた。彼らも船酔いをしたのだろうか?
「カグム。かの麟ノ国第三王子ピンインさまが、誤った方向に強くなろうとしているようなんだが……あれは止めなくていいのか? このままじゃ卑怯王子になっちまうぞ」
「それができたら、とっくに止めているよハオ。はあっ、ユンジェのせいで、日に日にピンインが悪ガキになっていく。頭いてぇな」
二人の会話を耳にしたユンジェは、軽く舌を出して、白々しく視線を逸らした。自分は何も知らない。何も聞いていない。何も悪くない。
暗い暗い川を進んでいくと、大きな鉄の格子に突き当たる。
これが水門らしい。かたく閉ざされている鉄格子は、荷船の登場と共に、きりきりと音を立てて上がり始めた。
見れば、水門の両側にある水車を、各々取っ手を二人がかりで掴んで回している。
荷船が通ると急いで水門を閉め、松明を左右に振って合図を送っていた。なんの合図だろう。健闘を祈る、とでも伝えているのだろうか。
水門を通ってしまうと、荷船は桟橋に寄る。もう降りてしまうようだ。
ユンジェはもっと、荷船に乗っていたかったのだが、荷船で移動するのは、あくまで水門を通ってしまうまでの過程らしい。
川で襲撃を受けたら、身動きが取れず、良い的になってしまうとのこと。
そう言われてしまえば、降りざるを得ない。また船に乗る機会があれば良いな、とユンジェは思う。
地上に足をつけると、そこはもう東の青州の地であった。
不思議な気持ちになる。南の紅州と、大して変わりないのに、しかと境界線が引かれているのだから。
船から降りると、カグムが急かすように指示する。
「この近くに岩場がある。夜はそこで明かす。行くぞ」
先導する彼の目の前を、数本の火矢が通り過ぎる。みな言葉を失った。まさか。
周囲を見渡すと、向かいの岸で王兵が弓を構えていた。燃え盛る矢を次から次へと放ち、逃げるユンジェ達の行く手を阻む。
そんな、いくらなんでも見つかるのが早すぎる。