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 間諜の隠れ家。

 塗り色屋物置の地下四隅の腰掛に座り、ユンジェは落ち着きを取り戻すべく、宙を見つめていた。否、宙を睨んで考え込んでいた。

 周りの間諜や謀反兵が忙しなく動き回っても、まったく目に入らない。会話すら耳に入らない。他のことを考える余裕すら生まれない。

(よく考えろ。折れるな。冷静になれ。セイウに抗う術がないと決まったわけじゃない)

 ユンジェは、とにかく必死に思考を回していた。
 主従の儀を無効する手はないか、あらゆる方向から考えていた。
 あの儀を無かったことにするには、どうすればいい? あれは三つの儀で成り立つもの。

【懐剣を抜く】
【服従を示す】
【血の杯を煽る】

 どれも撤回が利きそうにない。
 懐剣はすでに抜いた。服従の示しもセイウ以外の者に見られている。血の杯は胃袋に流し込んで、ずいぶん時間が経つ。吐き出すことは不可能に近い。

 だったら、ユンジェが気をしっかり持つしかない。根競べなら負けやしない。

(ばかか。もう負けてるじゃねえかよ)

 ハオに指摘されて、初めて【リーミン】と名乗っていた自分がいたのだから、気合でどうこうできる問題じゃない。
    
 泥沼に足を取られたような気分だ。いっそ不貞寝して、すべてを忘れてしまいたい。

 ユンジェは眉間の奥から感じる、鋭い痛みに耐えながら、重いため息を零した。何も良い案が浮かばない。
 このままだと、ユンジェはリーミンになってしまう。

 ふと髪を梳かれる感触がしたので、ゆるりと顔を上げる。
 振り返れば、ティエンが櫛でユンジェの髪を梳いていた。
 その櫛は逃げる際、部屋から持ってきた物。勝手に拝借する彼は、楽しそうに人の髪を梳いている。


「お前、何しているんだよ」


 こっちは必死に考えているというのに。呆れるユンジェを余所に、ティエンは優しい目で髪を弄っていた。

「ユンジェを美しくしてやろうと思ってな。こう見えて、私は髪を結うのが得意なんだ。兄上が美しくできて、私ができないなんて悔しいだろう?」

 張り合うところを間違っている。
 ユンジェは頭を振り、遊んでいる場合ではないと噛みついた。

 一刻も早く、セイウから逃げなければならない。でなければ、ティエンが殺される。自分だってどうなるか分からない。と、言ったところで、ティエンの期待を込めた眼差しとぶつかり、ユンジェは押し黙ってしまう。

 しまった。余計な一言を口走った。


(主従の儀のことは、ティエンに言うつもりねえのに)

    
 言ったら、絶対にティエンは自分を責める。
 目に見えて分かるから、ユンジェは黙っておこうと思っているのに、彼は見逃してくれない。いつまでも、ユンジェを見つめてくる。

 話を逸らすため、ティエンにへらっと笑い掛ける。

「安心しろよ。俺はティエンの懐剣だ。お前を殺させはしないよ」

 瞬きをして見つめてくる、その目に言葉を詰まらせてしまった。
 ああ、目の動きや眼光の鋭さで、なんとなく相手の感情が分かってしまう。彼は望んでいる言葉ではない、と訴えかけていた。

 ユンジェが目で相手の感情を読み取ってしまうように、ティエンも読み取る力がある。しきりに目を泳がせると、彼は目を細めて、静かに問うた。

「ユンジェ。リーミンという名は、セイウ兄上がつけたのだろう?」

 『リーミン』の名を聞いたユンジェは悲鳴を上げ、それを口にしないで欲しいと懇願した。その名前は恐ろしいほど、己の中で馴染んでいる。
 つけられて、間もない名前だというのに、それと比べた時、『ユンジェ』の方が違和感を覚えるのだ。

 ユンジェはその名前を必死に拒み、お願いだから口にしないで欲しいと訴える。


「俺はユンジェなんだ。ユンジェのままでいたいんだ。変わりたくない」


 取り乱すユンジェだが、すぐ我に返り、ティエンに大丈夫だと笑顔を作った。
 セイウから逃げ切ってしまえば、すべてが元通りだと明るく振る舞う。それまでの辛抱だと言った。言い聞かせた。

 ティエンが困ったように笑う。

「まったく。ユンジェは相変わらず、心の吐き出し方が下手くそだな。そこは辛抱じゃないだろう?」

 櫛を膝に置き、彼は体ごとユンジェと向かい合った。
 両の手でくしゃくしゃに頭を撫で回すと、ティエンはいたずら気に鼻を抓み、額を重ねてくる。
 ユンジェはとても、とても恥ずかしくなった。カグム達がそこにいるのに、ここで子ども扱いしなくとも良いではないか。

「ば、ばか。なんだよ、いきなり!」

 身を引こうとしても、彼の両手が顔を固定してくる。逃げられない。

「ふふっ。子どもは大人に甘えて良い生き物なんだぞ」

「こっ、子ども扱いしてるんじゃねーぞ! 俺はもう十四だっ、甘えるか!」

 知っている。彼は小さく笑い、軽く額をこすり合わせてくる。

「私はリーミンなんぞ知らないが、ユンジェのことならよく知っている。お前がユンジェを忘れそうになったら、私が思い出せてやるから。だから、安心しなさい」

 たったそれだけの言葉なのに、ユンジェの張っている気丈が脆くも崩れかける。