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 都を照らす提灯の光が消え、人間達が寝静まった頃、カグム達が橋の下に顔を出した。

 無事に王兵を撒いたようで、彼らの後ろに追っ手は見えない。
 どうやら客亭を襲った後、都の外れへ逃げ延び、そこで馬を乗り捨て、どこへ行ったのか分からないようにかく乱させたようだ。

 ユンジェが手を振ると、その姿を見たカグムが呆けた顔を作り、ハオに言った。

「ハオ、お前……べつのガキを連れて来てどうするんだ」

「そうだよな。カグム、お前もそう思うよな。俺の反応は間違ってなかったわけだ」

 よほど、普段のユンジェは汚かったらしい。
 カグムは小綺麗になったユンジェにあっ気取られ、「貴族かと思った」と零した。ハオとまったく同じ感想を述べてくれた。

 カグム達と共に、間諜の隠れ家に向かう。
 そこは都のど真ん中にあり、表向きは焼き物に絵を描くための塗料を売る、塗り色屋であった店の物置には地下があり、間諜の集会場となっている。

 ティエンはその店の地下に待機を強いられていた。

 ユンジェが階段を下りると、四隅の腰掛で腕を組み、美しいかんばせに怒気を纏せ、間諜達を縮み込ませていた。王族の怒りにみな、恐れていた。


「ティエン!」


 ユンジェが呼ぶと、顔を上げた彼が腰掛を倒し、なりふり構わず駆け寄って来る。小綺麗になっても、一目でユンジェだと分かったようだ。

「良かった。ユンジェ、本当に良かった。無事だったんだな」

 痛いほど抱擁してくる彼に、苦しいと笑い、軽く背中を叩く。

「お前も無事で良かったよ。セイウが血眼になって、ティエンを探しているみたいだったから、すごく心配していたんだ」

「私よりユンジェだ。セイウ兄上に何もされなかったか? あれは、本当に食えない男だ。お前にひどいことをしたんじゃ」

 まるで人の話を聞いてない。
 ティエンはユンジェに、大丈夫だったか、何も無かった、ひどいことはされなかったか、と繰り返し尋ねてくる。

 ユンジェは何も無かったと返事する。
 主従の儀については伏せておくつもりだった。話したところで、彼を悲しませるだけだし、ユンジェ自身、今のところなんともない。服従のことも、血の杯も、その時だけの苦しみだった。耐え切ったと思っている。

 黎明皇やまこと懐剣の役目だけ、落ち着いた時に話すつもりだった。


「お前の兄さん。ちっとも、ティエンと似てなかったよ。顔は綺麗だったけど、性格はすごく悪かった。本当に血が繋がっているか疑っちまったよ」

    
 ティエンの方が、顔も性格も優っていると褒めちぎってやる。力だけは向こうが強いかも、と冗談を添えて。

 大丈夫だったと振る舞うユンジェに、ティエンがようやく信用を見せ、安堵の表情を見せた時だった。見守っていたハオが口を挟んでくる。

「クソガキ。お前、本当は何か遭ったろう?」

 何を言っているのだ、この男。
 ユンジェは腕を組み、何もなかったと突き返す。
 あっても、王族の不慣れな風習に翻弄された程度だ。変なことを言わないで欲しい。せっかく、ティエンが信用してくれようとしているのに。

 頑なになるユンジェに吐息をつくと、ハオは妙な質問をした。

「自分の名前を言ってみろ」

 訝しげな顔を作ると、早く言えと急かされる。仕方なしにユンジェは答えた。

「リーミン。俺はリーミンだよ」

 慣れ親しんだ名を口にするとハオの目を細くなり、ティエンの顔色が変わった。見守るカグムですら眉を寄せるので、ユンジェは首を傾げる。

 もう一度言えと言われたので、しかと返してやる。自分の名前はリーミンだと。

「ゆ、ユンジェ。ああ、ユンジェ。セイウ兄上に何をされたんだ」

 見る見る絶望に染まっていくティエンが、震える手で両頬を包んでくる。
 どうして彼がそんな顔をするのかが、ユンジェには少しも分からない。なんでティエンは泣きそうなのだ。

 困惑していると、ハオが背を向け、軽く舌打ちをして指摘した。

「くそっ、いい加減気付けよ。てめえ、俺と会った時から『リーミン』って名乗っているんだよ。お前は『ユンジェ』だろうが」

 理解するのに数秒時間を要した。

 やがて、ユンジェは恐怖のどん底に突き落とされてしまう。

 うそだ。いつの間に自分は『リーミン』だと口走っていた? 周りはみな、己を『ユンジェ』と呼んでいた。ユンジェはそれが自分の名前だと分かっていたので、声を掛けられる度に答えていた。

 なのに。ユンジェ自身は、己を『リーミン』だと名乗っていた、なんて。

(まさか。主従の儀のせいか)

 あれのせいで、自分は本当にセイウの隷属に。
 ならば、今のセイウとユンジェは、まこと主従関係であり、所有者と懐剣の関係が成立しているのか。

「セイウに名前をっ、奪われ始めている。そんな、そんなのって」

 目眩を起こしそうになったユンジェだが、どうにか足を踏み留めると、心配するティエンの体を押しのけ、彼の懐剣を抜く。

 そして柱目掛け、力の限りそれを投げ刺した。セイウの高笑う残像が、確かに見えた。

「リーミンなんて冗談じゃねえぞ、セイウ。俺はティエンの懐剣だ。懐剣のユンジェだっ!」