「……やっと帰って来たな。ティエン」
日が傾き、空が赤く染まり始める。
それだけ、長いこと待ちぼうけを食らっていたユンジェの下に、ようやくティエンが戻って来た。何かを持っているようだ。
「お前な。急にどっかに行くなよ。心配しただろ!」
帰って来るや否や、ユンジェはティエンを見上げて叱りつける。けれども、彼は優しく笑うばかり。まるで反省の色がない。
眉をつり上げるユンジェに、ティエンが持っていた物を差し出してくる。
笹の葉で包んだ桃饅頭であった。蒸されて間もないようで、それは湯気立っている。
声を上げて驚いてしまった。
何故、ティエンが桃饅頭を買っているのだろうか。彼は無一文だ。それは助けた時に確認済みである。
「……お前、まさか」
布から顔を出したティエンが、満面の笑みを浮かべる。
予想した通り、彼の髪は短くなっていた。絹糸のように美しかった長い黒髪が、ユンジェと同じくらいに短くなっている。短髪になっても、その顔は女のように美しい。
「な、なにやってるんだよ。大切にしていた髪じゃないか!」
ユンジェは知っている、彼が髪を大切にしていたことを。自分は農民であるため、髪を切ろうが、また伸ばせばいいと思える。
だが、ティエンは違う。
彼はいつも、あの長い髪を纏め、簪を挿していた。ユンジェと暮らし始めても、髪を纏め、簪を挿し続けていた。彼なりの誇りがあったに違いない。
それを切って、売ってしまうなんて。
「もう簪が挿せないんだぞ。なんで、こんなことを」
ティエンは笑みを深め、かぶりを横に振ると、腰にさげていた布袋を叩いた。銭の音がする。簪も売ってしまったのだろう。
もう必要ないのだと態度で示し、頭に手を置いてくる。
呆然と彼を見上げていたユンジェだが、次第に顔を歪め、体を震わせる。
「……おまえ、ばかだろ」
先ほど堪えた涙が溢れ出てきた。
ティエンは助けられた恩を返すために、髪を切り、桃饅頭を買って来たのではない。
ユンジェを励ますために、これを買って来たのだ。町の大人達の汚いやり方に耐えるユンジェを、彼なりに慰めているのだ。
「ばかだっ、ほんとうに……」
ユンジェを知る者達は皆、自分を『しっかり者』だと称賛する。
爺がいなくとも、一人で生計を立て、前を向いて生きようとする姿が素晴らしいと拍手を送る。
それは勘違いだ。
ユンジェはしっかり者なんかではない。頼れる大人がいないから、一人でどうにかしようとも、必死に足掻いているだけなのだ。感情を殺し、我慢しているだけなのだ。大人になろうと、背伸びをしている、ただの子どもなのだ。
抑えられない苦い感情を噛みしめ、ユンジェはティエンの懐に入った。胸に顔を押しつけ、我慢していた気持ちを吐き出す。
「悔しいっ、ティエン……俺、くやしいっ」
上擦った声が泣き声にかわる。
「腹の底が熱くなるくらい、悔しい……悔しいよ」
悔しいの言葉しか出ない。
大切に育てた収穫物を、貰った貴重な砂糖を簡単に取り上げられ、尚且つ何も言い返せない自分が情けない。
もっと知識があれば、言い返すこともできただろうに。塩の値札が読めれば、その価値を理解し、平等な物々交換が望めたかもしれないのに。
無知だから損ばかりする。子どもだから舐められる。農民だから蔑まれる。そんな自分が嫌で仕方がない。
知識さえあれば、こんな思いをしなくて済んだのだろうか。嫁ぐリオにも、素敵な言葉が贈れたのだろうか。ユンジェには何も分からない。
「桃饅頭っ……半分、お前にやるよ。一緒に食べよう。今日のことはそれで、忘れる。忘れられるから」
強く頭を抱きしめられる。背中を叩かれ、子どものように慰められる。
それが余計に涙と悔しさと情けなさを誘い、ユンジェは声を押し殺して泣いた。甘えるように泣き続けた。
爺が死んで二年余り。誰にも頼れなかったユンジェが、初めて心から頼れる者を見つけた瞬間であった。