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――へえ。お前がピンイン王子。呪われた王子って言われているわりに、ちゃんとした人間なんだな。えーっと、王子でいいんだよな? 王女じゃないんだよな? ……そっ、そんなに暗い顔するなって。ただ確認しただけだろう? 俺はカグム。今日からお前の近衛兵になる男だ。ああ悪い、馴れ馴れしくて。なんっつーか、敬語ってのが苦手なんだ。二人きりの時は見逃してくれねーか? 公の場では、ちゃんと敬語で話すから。堅苦しい空気は好きじゃなくてさ。ついでに、ピンインって呼んで良いか? 俺のこともカグムで良いからさ。
はじめて、気さくに呼ばれた時、ピンインの名が好きになった。周りが己を蔑んでも、たった一人の人間に呼んでもらえるだけで、とても励まされた。
今となってはピンインの名前など、ただの過去の名にしか過ぎない。今の自分は。
――あんた、天人じゃないの? 嘘だ。こんなにも綺麗な奴が、人間なわけがないじゃないか。俺を見ろよ。どっからどう見ても、泥くさい人間だろう? 土ばっかり弄ってるせいなんだ。しかし、声が出ないのは不便だな。俺、文字の読み書きできねーし。これじゃあんたの名前を呼んでやれねーよ。そうだ、声が出るまで俺が呼び名をつけていいか? 大丈夫だって。変な名前はつけない。そうだな。天人じゃないって言われたけど、あんた、それっぽいから天。俺、これからティエンって呼ぶ。どう?
そう、ティエンなのだ。
子どもから名づけられた名前は、とても心地が良い。
この名前を付けられてから、自分は少ないながらも、かけがえのないものを手にした。家族ができた。弟ができた。友ができた。生きたいと自分から強く願うようになった。なよなよしていた己を捨て、強くなろうと思った。
だから、これからもずっと――ティエンのままで。
夜風が頬を撫でる。
その冷たさに身震いをしたティエンは、ゆるりと瞼を持ち上げた。満目一杯に広がるのは、生い茂った藪と暗闇。何も見えない。自分はどうしたのだっけ。
うつらうつらと顔を動かす。
藪の隙間から、青白い月明かりが零れているのが見えた。
振り返って目を引くと、微かに分かるカグムの顔。目と鼻の距離にあると気付き、肝が冷えていく。
覚醒する。そうだ、自分達は急傾斜から滑り落ちたのだ。
気を失っていたカグムが、小さな唸り声を上げて目を覚ます。
急いで距離を置くティエンに対し、彼は身を起こして頭部をさすっていた。己を庇って落ちたにも関わらず、軽傷程度で留まっているらしく、「頭にコブができてらぁ」と、独り言をぼやいていた。
起きて早々ティエンは混乱する。
なぜ、彼は自分と共に落ちる選択をしてきた。
あの夜は剣で斬りつけ、無情に谷へ落としたくせに、なぜ。分からない。自分の命を狙った男のことが、自分を守ろうと共に落ちたカグムのことが。
足元に己の持っていた短剣が落ちていたので、それを右の手で取って身構える。
ようやく己の存在に気付いたのだろう。夜目が強いのか、ティエンの持っている短剣を捉え、肩を竦めてくる。
「話をしたいので、まずそれは仕舞って下さい。落ち着きません」
まだ、心が荒れ狂っていたティエンは近寄る彼に、怒声を浴びせた。
「カグム。貴様は一体、何なんだ。私に近付き、一体何がしたいっ」
「私の目的は、すでにご存知でしょう? 天士ホウレイさまの下へ、貴方様を連れて行くことです」
そこではない。聞きたいところは、そこではない。
ティエンはもっと、彼の内面的なところを聞きたいのだ。その心はいま、ティエンをどう見ている。
一瞬の隙がカグムとの距離を許した。
我に返って短剣を振り下ろすも、右手首を掴まれ、力強く握りつぶされる。短剣を落として痛みに身悶えるティエンを、彼は小さく笑った。
「非力な貴方様では、私を殺すどころか、傷をつけることすらできませんよ。離宮の箱庭育ちの王子の力なんて高が知れています」
「おのれっ、カグム。よくも……よくも……」
「貴方がどのように私を憎んでいようが関係ない、抵抗するなら腕を捻るだけです」
それだけで勝てる、カグムは柔和に頬を緩めた。
それが嘲笑だと気付いたティエンは、強く下唇を噛み締める。
怒りのあまり腹が熱くなった。できることなら、今一度短剣を突きつけ、めちゃくちゃに切り裂いてやりたい。襲ってやりたい。癇癪を起こして、すべてを無にしてやりたい。
しかし。自分は無力だ。王族の近衛兵だったカグムに勝てるわけがない。
彼は近衛兵の中でも、腕があると名が挙がっていた男。彼の言う通り、箱庭育ちの自分が勝てるわけがないのだ。
その現実がティエンを打ちのめす。
(くそっ……くそっ!)
どうして、自分はこんなにも弱いのだ。憎き手を振り払うことすらできないなんて。
ふと、脳裏にユンジェの姿が浮かんだ。
そういえば、子どもは口癖のように言っていたっけ。自分達は弱い。大人に力で勝てるわけがない。
だったら、頭を使うしかない。頭を使うしか――ティエンは左の手で短剣を拾うと、己の右腕目掛けて突き立てた。