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それは突然であった。
患者の薬草を切り刻むため、ハオが道具を煮沸消毒していると、寝台の方から大きな物音が聞こえた。
驚いて振り返れば、昏睡状態に入っていたはずの子どもが這いつくばっている。目が覚めたようだ。その手には懐剣が握られていた。
出入り口へ向かって這っているので、急いでユンジェの下へ向かう。
「馬鹿野郎、どこに行くつもりだ。寝てろっ!」
身を起こしてやると、子どもがハオに縋った。
「ティエンはどこ。おれ、いかなきゃ」
「はあ? 行くってお前」
そこでハオは気付く。この子ども、目の焦点が合っていない。
「行かないとっ……ティエンっ、守らないと。俺はまだ折れてないよ」
ハオは恐ろしくなる。
麒麟から使命を授かると、身も心も所有者を優先するようになるのか。
子どもの体は怪我と熱で弱り切っているというのに、昏睡状態に入っていたというのに、瑞獣はそれすら許さず、使命を優先させようとするのか。
これが麟ノ懐剣となった者の、所有者から災いを守る者の姿。
(自分より所有者を優先させなきゃなんねーなんて)
思わず哀れみを抱いてしまう。
己を大切にする心を、麒麟は取り上げてしまったのだろうか。
「ピンインさまなら大丈夫だ。あの方は今、カグムと一緒にいる。何か遭っても、あいつが……あー……あの二人だしな……」
もしかして。ハオは嫌な予想を立ててしまう。
(カグムの野郎、ピンインさまに何かしているわけじゃねーよな)
王子を煽って武器を交えたり、王子の方が私情に駆られて剣を抜いたり、そのようなことになっているのでは。
大いにあり得る。あの二人ならあり得る。自分が行くべきだったのだろうか。悩ましい問題にハオは肩を落としてしまう。
(頼むから面倒事だけは起こしてくれるなよ。ただでさえ、ガキのことで手いっぱいなのに。俺の立ち位置って、考えなくとも苦労ばっかじゃねーか?)
腕の中にいるユンジェは、懐剣を両手で握り締め、うわ言を繰り返す。ティエン、ティエン、ティエン、と。
「おれは、まだ折れていないよ……まだ……」
己の死を折れていない、と口にするあたり、子どもは懐剣の自覚を持っているのだろう。いつか、この子どもは自分が人間であることすら忘れてしまうのでは?
そこでハオはユンジェに告げる。
「いいか、クソガキ。てめえは今、死に掛けているんだよ。それを王子がどうにかしようと、奔走している。そんなピンインさまを守りたきゃ、あの方に助けられろ」
「たすけられ……」
「そんな体で何ができる。お前は刃物じゃねえ。刃をその身で受け止めれば、当然血が出る。血が無くなれば体は動かなくなる。てめえの身は脆い、なぜならてめえは人間だから」
人間である自覚を持て。王子を守りたければ助けられろ。王子が一喜一憂する存在はお前だと、ハオはユンジェを見据え、容赦なく胸倉を掴んだ。
「王子を守りたいんだろう? なのに、あの方の心を傷付けるような真似をしてどうするんだよ。お前ら、家族なんだろうが。兄弟なんだろうが」
ユンジェの手から懐剣が滑り落ちる。
思い出したように、「肩が痛い」と、「体が熱い」と、「とてもつらい」と呟き、ハオの手に己の手を重ねた。
「ハオ。おれの体、動かないよ」
「そりゃそうだろ。お前は怪我人、懐剣じゃねーんだから」
子どもは少しだけ嬉しそうに、そうだね、そうだよね、と頷いて、ハオに凭れ掛かった。
体を受け止めたハオは神妙な面持ちでユンジェを見下ろす。子どもはぐったりと目を閉じ、胸に頭を預けていた。
「ほんと。面倒くせぇ奴等ばっかだな」
どいつもこいつも、ただただ面倒だ。
悪態をつくハオは懐剣を拾うと、子どもを横抱きにして寝台へ戻す。不思議なことに、懐剣は重みを感じなかった。以前はとても重たいものだったのに。なぜだろう。
「王子と家族なんて……身の程知らずだな、てめえ」
農民のくせに。ハオは力なく笑う。
「あの方が王族でなけりゃ、王子でなけりゃ……お前ら、本当の家族になれたかもしねーな。ずっと、平和に暮らせたかもしれねーのに……天は無情だよ」
拾った懐剣を子どもの手に持たせる。らしくもない同情を抱いてしまった。