その日の調子はどうもおかしく、野宿場所を決めた辺りから、妙な胸騒ぎを覚えた。誰かが追って来るような、そんな不安な気持ちに襲われたのである。

 そしてそれは眠りについても続き、恐ろしさに魘されていたところ、隣で寝ていたティエンが異変に気付いて、高熱は発覚した。

「まずい。傷口が化膿している。菌が入ったのか。膿んでやがる」

 包帯を解くハオの声が遠い。ユンジェはうつらうつらと顔を動かした。視界が揺れているのは、自分の目が潤んでいるせいだろう。ああ、肩が痛い。頭が重い。ここは不安だ。

「ハオ。なんでユンジェは熱を出してしまったんだっ。川には入らせていないぞ」

「んなの、考えれば分かるだろうがカグム。外で寝ていたからだよ。包帯を替えていたとはいえ、毎日同じ衣を着ている。着替えもねえ。そして寝る場所は草や冷たい土の上。菌の好む条件は嫌ってほど揃っている。湯は沸けたか!」

 ずいぶんと周りが騒がしい。ユンジェは他人事のように、その様子を眺めていた。

 暁方、ユンジェの意識はおぼろげなものになっていた。
 声を掛けられると、返事こそできるものの、理解するのに時間を要する。水を口元に運ばれても、まったく飲み込めない。痛みや熱すら遠いものに思えた。

 なにより追って来る数が、その恐怖が一層強い。ここは危ない。本能が警鐘を鳴らしている。

「くそっ。膿みは出し切ったが、こう高い熱があっちゃ出発なんて到底無理だぜ。せめて熱を下げねーと、ガキの体力が持たない。出発は延期するべきだ」

 出発延期。
 ユンジェはその言葉に反応し、消えそうな声でハオに言う。自分は大丈夫だから、出発してほしいと。素っ頓狂な声を出された。ふざけたことを言うなと、お前は死にたいのかと、盛大に怒鳴られる。

「ユンジェ。私も反対だ。お前にこれ以上、無理をさせるわけにはいかない。お前がなんと言おうと、ここで休む」

「でも」
「言うことを聞きなさい」

 ティエンにまで、怖い顔で叱られてしまった。けれど、ユンジェも譲らない。

「いまの俺じゃ……おまえを守り切れないよ。そこまで、もう来ている」

「来ている? ユンジェ。何が来ているんだ?」

「おれはお前を守る懐剣なのに、あの数じゃあ無理だ。多いよ。とても、多い。恐ろしいよ、ティエン。おまえを死なせたくないよ」

「ユンジェ? 何を言っているんだ。気をしっかり持ってくれ。ここには何もいないよ。だから大丈夫、落ち着いてくれ」

 肩を掴む彼の声がとても遠い。ユンジェはうわ言を繰り返した。出発しようと。ここは危ないと。

 すると何かを察したカグムがライソウとシュントウを呼び、偵察を命じた。程なくして、馬を走らせた二人が戻り、目にした事を知らせる。

 曰く、南の方角に将軍カンエイ率いる隊の天幕を発見とのこと。
 それは黄州の王族直属の兵だという。カグムは舌打ちを鳴らし、「もうここまで来たか」と、強く頭部を掻いた。

「さすが、知将と謳われた将軍カンエイ。【謀反狩り】の手が早ぇな。どこで俺達の足取りを掴んだんだよ。数をばらけさせて、かく乱させたつもりだったのによ。町人側の間諜達は無事だといいが」

 ユンジェは遠のきそうな意識を必死に手繰り寄せる。

 そうか、カグム達が仲間と合流しなかったのは、追っ手の目を誤魔化すため。きっと、カグム達以外の謀反兵も紅州各地で逃げ回っているのだろう。

 将軍カンエイは天士ホウレイの手下を根絶やしにするためにやって来た。
 勿論、これはティエンにとっても悪い話だ。王族の兵に見つかれば、当然ティエンは殺されてしまう。

(この胸騒ぎは将軍タオシュンの時と同じっ、ティエンが危ない)

 守らなければ。自分は彼の懐剣なのだから。しかし、そんな懐剣は今、役立たず。
 ならば逃げよう。さもないと所持者が傷付いてしまう。ユンジェを置いて逝ってしまう。それが、とてもこわい。高い熱のせいか、心が弱気になった。


「ティエン。こわいよ、おまえを死なせたくないよ。熱なんて辛抱できるよ。こんなのヘーキだよ。だから」


 生きるために逃げよう。







 ティエンはうわ言を漏らすユンジェを見つめる。
 握り拳を作り、下唇を噛み締めた。天は慈悲すら与えてくれないのだろうか。この子どもを休ませる、その時間すら。

「ピンインさ……ピンイン。出発するぞ。『護り剣』のガキは、お前に迫る災いを感知できる。ガキの言葉はうわ言じゃない。これから起こりうる――現実だ」

 何を思ったのか、カグムは昔の口調で話し掛けてくる。まったくもって腹立たしい。そんなこと、言われずとも分かっているのに。

 ティエンは冷静だった。嘆いたところで現状は変わらない。悲観したところで結果は同じ。それを変えることができるのは、行動のみ。ティエンは嫌というほど、それを学んでいる。

(もし此処で兵と鉢合わせたら、ユンジェは使命に駆られ無理をする)

 そうはさせない。自分はユンジェを生かすと心に誓っている。

(ユンジェ、すまないな。お前を休ませられなくて。だが、もう少し頑張っておくれ。必ずお前を救ってやるから)

 ティエンに一点の迷いもなかった。守るべきものがあると、人はこんなにも強くなれる。たとえ、憎き兵達が目の前にいようと、何を優先すべきなのか冷静になれる。


「カグム、出発の前にいくつか確認をしたい。将軍カンエイの天幕と兵達の数、そして今後の行く道について詳しく聞かせてくれ」