「あら、ユンジェじゃない。久しぶりね」


 得意先となっている農家を訪れると、()を振るって米を脱穀している少女が手を止めた。
 ひとつ年上のリオだ。ここに来ると、いつもユンジェを歓迎してくれる。

 どんな状況でも、笑顔を忘れない女の子なので、彼女の顔を見ると心が軽くなる。

「リオ、久しぶり。おじさんか、おばさんはいるか? 取引をしたいんだけど」

「お母さんが家にいるわ。いま、呼んでくる。そちらの人は?」

 ティエンはユンジェの背後に立ったまま、動こうとしない。
 あまり人と顔を合わせたくないのだろう。リオに会釈をすると、背を向けてしまう。もう少し、愛想を良くしてもいいだろうに。

 程なくして彼女の母、トーリャが顔を出した。ふくよかな体が、ずんずんと大またで歩く姿は、いつ見ても迫力を感じる。


「ユンジェ。良く来てくれたねぇ。あんたを待っていたよ。さっそくだけど、少しばかり芋を多めに貰えないかい? 今年の冬は厳しくなりそうでねぇ」

「……米、不作なの?」


 背負い籠を下ろし、物々交換の準備をするユンジェは、トーリャのため息を聞き逃さなかった。

「雨が多かったものだから、穂に実がつかなくてねぇ。ただでさえ、今年は多めに年貢を納めないといけないというのに」

「また年貢が上がったの? 去年上がったばかりじゃないか!」

 ユンジェは頓狂な声を上げる。
 多くの農民は地主から土地を借り、そこで農作物を育てている。土地を借りている代わりに、収穫の一部を年貢として納めているのだが、近年その年貢の量が増えている。

 農民達にとってしてみれば、堪ったものではない。

 収穫の量は天候によって左右されるため、毎年同じ量を納めることができるとは限らない。

 なのに、地主は年貢の量を増やす。
 特に水田を持つ、農民達の年貢を集中的に上げるので困っているのだと、トーリャは顔を顰めた。

「米は贅沢品で、お偉いさん方の好物だ。私達から絞れるだけ絞って、たんまりと米を食べようって寸法だろうさ」

 酷い話だ。農民にだって生活があるというのに。

「おばさん、笊三杯分の芋を用意するから、多めに藁をちょうだい」

「いいのかい? 二杯分にしてくれたら、儲けものだと思っていたんだけれど」

「いいよ。おばさんのところは、八人家族じゃないか。冬に備えて、蓄えておきたいだろ?」

 ユンジェの家も苦しいが、トーリャの家はもっと苦しく、大変だということを知っている。困っている時は助け合うことが大切だと、(じじ)から口酸っぱく教えられているため、笊三杯分の芋を用意した。

 ティエンに笊一杯分の豆を用意してもらい、トーリャに差し出す。彼女は頭を下げ、感謝を述べた。

「ユンジェ。本当にありがとう。後で藁と一緒に砂糖をあげるよ。持っていておくれ」

 砂糖は米よりも贅沢品だ。手軽にもらえる品物ではない。

 しかし、トーリャは渡すと言って譲らなかった。彼女は本当に律儀で優しい女性だ。ユンジェは心の底から、トーリャを尊敬する。

「あんたのところも、チョウ(じい)が亡くなって大変なのに、すまないねぇ」

(じじ)が死んで、もう二年経つんだ。大変なことは多いけど、慣れていかないとね」

「あんたはしっかり者だねぇ。リオ、ユンジェを見習って頑張るんだよ。あんたも、もう立派な大人で、人様の嫁になるんだから」

 嫁。ユンジェはリオを凝視した。

「お前、嫁ぐのか?」

「うん……七日後にね。もう、十四だから」

 彼女は近くの土地で、養蚕業を営む家に嫁ぐのだそうだ。
 ユンジェはくしゃりと、胸が押しつぶされたような、つらい気持ちになった。喜ばしい話だというのに息が苦しい。


「まだ会ったこともないんだ。私の旦那さん、どんな人だろう……」


 リオは乗り気でないのだろう。表情は浮かない。
 
 近くとはいえ、知らない土地で、知らない人間と、新しい生活を送らないといけないのだ。楽しみより、恐怖があって当然だ。

 それでも彼女は嫁がなければならない。
 それはきっと家のためであり、家族のためなのだろう。語る口から一言も、拒絶の言葉は出なかった。

「元気でね、ユンジェ。里帰りしたら、きっと貴方に会いに行くから」

 帰り際、ユンジェはリオにお別れの言葉をもらった。
 返す言葉が見つからず、頷くことしかできなかったユンジェだが、彼女の濡れそうな瞳と目が合い、強くはっきりと告げた。


「必ず幸せになれよ、リオ。挫けるなよ。お前は笑っている顔が一番似合っているから」


 リオのくしゃくしゃな笑顔が、頬を伝った涙が、胸に突き刺さる。

 これは彼女の望む結婚ではない。分かっている。
 農家に生まれた女の大半は、こうして世継ぎのために貰われていく。分かっている。
 リオだけが特別な運命を背負うわけではない、他の女達も似た境遇に立たされる。すべて分かっている。

 けれど、リオにだけは、彼女だけには気の利いた言葉を贈りたかったのだ。

 でも、あの顔を見てしまうと、幸せを願った言葉すら、本当は言ってはいけないような気がした。

 もっと知識があれば、リオを喜ばせる、気の利いたお祝いの言葉が贈れただろうか。




(……リオ。幸せになれるといいなぁ)

 砂糖の入った布袋を見つめ、それを強く握り締めた。
 町へ向かう足取りが重くなる。ため息が増えた。心がいつまでも潰れたような、つらい気持ちでいる。

 と、軽く頭を撫でられた。弾かれたように顔を上げると、ティエンが慰めるように、微笑んでくる。
 途端に気恥ずかしくなり、ユンジェはかぶりを振って、彼の手を落とした。

「り、リオと会えなくなるのは残念だけど、あいつは嫁ぐんだ。きっと幸せになるさ」

 ちらりとティエンを一瞥すると、困ったように笑っている。その顔すら美しく思えるので、美貌とは恐ろしいものだ。
 やはりこの男、人間の皮をかぶった、天人(てんにん)なのではないだろうか。

「わっ、ちょっと! ティエン!」

 彼は気丈に振る舞っている、ユンジェの気持ちに気付いているようだ。
 頭から振り落とされても、ふたたび頭に手を置いてくる。軽く叩いてくる。そして、静かに撫でてくる。

(なっ、なんだよ。俺は子どもじゃねえぞ!)

 ユンジェは顔を紅潮させると、慰める手から逃げるように早足で歩き始めた。(じじ)に似た、あたたかで優しい手だと片隅で思った。