「……あれ、日向君、なんか髪濡れてない?」
 雪さんが突然、俺の髪を指差した。
「あ、これはさっき雨で……」
「そう……雨。降ってたんだ……。来るときは降ってなかったのにね。つい、さっきまでは」
 怪しく微笑む雪さんから、なぜか目が離せなかった。タバコの白く長い煙は、すっと消えてゆく。激しい雨音が、やけに耳に残った。
「……じゃあ、そろそろ帰るわ。紫苑さんにもよろしくね」
 雪さんはゆっくりカウンターから離れると、明らかにお酒の代金にはそぐわない大金を俺に押しつけた。俺は慌ててすぐにそれを突き返した。
「まだ学生なんでしょ? お小遣いだと思って受け取っておけばいいのに」
「……こういうのは、困ります」
 からかわれているような気分になって、俺は少し機嫌が悪くなっていた。
「いいのよ、今日はちょっと罪滅ぼしをしたい気分なの」
 そう言った彼女の指に、何かきらめくものが刺さっていたので、俺は彼女の手を取った。
 それは、ガラスの破片、だった。ただの偶然だろうけれど、でも今このタイミングで割れたガラスの破片を見てしまうと、どうしてもさっきの事件と繋がってしまう。
「ああ、これ、さっき刺さったのかしら。気づかなかったわありがとう。それじゃあね。日向君」
 偶然だって分かっている。でも疑念は残る。だったら心の中を覗いてやろう。彼女を呼び止めようとしたその瞬間、頭に電流が走った。言葉は、真っ白になって消えた。声が、出ない。息ができない。なぜって、彼女の感情が読み取れなかったから。
 俺は初めてのことに混乱するばかりで、無理やり押しつけられた札束をくしゃくしゃに握り締めたまま、その場に愕(がく)然(ぜん)と立ち尽くしていた。どうして? なんで? 感情を完璧に殺せる人間なんていないはず。背筋が、ぞっとした。どくんどくんと、血管が脈打っている様子が自分でも明確に伝わってくる。指先から、足先から、何か奇妙なものに侵食されていく感覚が襲ってくる。店から出る直前に見せたあの雪さんの微笑みが、脳裏に焼きついて離れない。雪さんは、一体何者なんだ。
「顔真っ青だぞ、お前。どうした」
 思わずふらついたそのとき、腕を誰かにきつくつかまれた。思わず俺は雪さんのが飲み残したお酒が入ったタンブラーをカウンターに倒してしまった。……その音で正気に戻った。少し、騒然となっている店。客の視線。透明な液体は、雪さんから押しつけられた札束をじわりと濡らしていく。目の前には、俺の腕をつかんだまま真剣な顔をしている宮本さんがいた。
「……休んでろ、すこし」
 全てを見透かしたように落ち着いた瞳を見たら、かたくなに握り締めていた拳の力が少しずつ緩んだ。ドク、ドク、と音を立てて徐々に心音が静かになっていく。宮本さんにつかまれた手首だけ、異様に熱い。俺は隅っこのカウンターにうつ伏せ、雪さんの言葉を頭の中で反(はん)芻(すう)した。