日向君は一瞬目を泳がせたが、ゆっくり私が座る予定の席の椅子を引いて、どうぞ、と彼はいつも通りの無表情で言った。私は周りからの視線が今更ながら、かなり気になったのだけれど、会釈をして椅子に座った。
「あの、日向君。これ、机を汚してしまったお詫びに……」
 私は、恐る恐るポケットから昨日買ったお菓子を取り出した。私が最近ハマっている、溶けないタイプのチョコレートだ。今朝からずっとポケットの中に忍ばせていたもの。日向君は一瞬驚いた表情を見せてから、ちょっとだけ笑った。
「そんな律儀に……、ありがとう」
「あ、いえいえ」
 なんだか少し照れ臭くなってしまった。案の定、さっき梓に言われた『サエのこと好きなんじゃないの?』という言葉がよみがえってきて、更に鼓動は速くなった。いや、そんなことは、ありえない。だって、私、ずっと恋愛とは無縁だったし、うん。今までずっと憧れの存在だった彼が、急に身近な存在になって、余計に意識してしまうようになった。きっと途中からロボットみたいな動きをしていただろう。その数秒後にチャイムが鳴り、授業が始まった。
「教科書六十七ページ、問三の宿題の……」
 先生の声もはっきりと耳に入らない。私は、ずっと日向君のことで頭がいっぱいで、一人葛藤していた。しかし、そんな葛藤もすぐに消え去った。
「中野、問二の答え」
 思いもよらぬタイミングで自分の名前が呼ばれ、一気に肝が冷えた。突然のことに焦ったけれど、今回はしっかり課題を問いてあるので問題ない。
 しかし、課題用のノートを開いたその瞬間、私は言葉を失った。焦って教室に来たせいで、違うノートを持ってきてしまったのだ。最悪なことに、この数学の先生はとても怖いことで有名で、私も今までの授業でそれはよく分かっていた。早く答えないと、先生も苛(いら)立ち始めてしまう。どうしよう。ノート取ってきていいですかなんて聞いたら、今日の授業の半分は説教で終わってしまう。
 その瞬間、もしかしたら日向君がまた助けてくれるかな、という考えが浮かんだ。すっと視線を彼の方に送ってみる。しかし反応はない。そんなにいいタイミングで助けてくれるわけないよなと思い、先生に謝った。
「すみません、ノートを間違って持ってきてしまいました」
 先生は、黙って名簿を取り出し、私の欄にマイナス1と書いて次の人を指した。無視が一番堪(こた)える。やっぱりこの先生怖い。私は、静まり返った教室の雰囲気に怯(おび)えながら席に座った。日向君は、ちらっと一回だけ私の方を見て、すぐに視線を黒板に戻した。正直に言うと、期待していた。今回も日向君が助けてくれるって。何舞い上がってたんだろう。結局私は最後まで集中できないまま授業を終えた。