「彼氏んとこじゃん? ほっときな、お母さん」
 お母さんたちの声に答えている余裕すらなかった。空はもう真っ黒で、弓形の白い月がくっきりと浮かんでいる。なぜか、今日はひどく月が遠い気がした。それを見たら、泣きたくなった。
 ……おじいちゃん、ごめんね。私、約束ちゃんと守れなかった。弱くてごめんなさい。
 自転車の丸い光だけを頼りに進む。冷たい風が体を突き刺す。白い息が、淡雪のように溶けては消えていった。私は夢中で自転車を漕いだ。まるで、罪悪感を掻き消すかのように。
 数十分でおばあちゃんのお店まで辿り着いた。自転車をお店から少し離れた空き地――道路をはさんだ向こう側――に止めて、おばあちゃんの元へ向かう。今度こそ真っ暗で何も見えなくなった。お店から漏れている四角い光を頼りにそこへ近づく。そのとき、何かにぶつかってしまった。すぐに私は黒くあたたかい物体に包まれて、私の視界は真っ黒になった。しばらくはそれが何か分からなかったけれど、心臓の音が聞こえて初めてそれが人間なのだと分かった。
「す、すみません、急いでて……」
「中野……?」
 その声に反応して上を向いた途端、息が詰まった。闇に溶け込んでいた人は、日向君だった。黒いシャツに黒い髪、そしてブルーグレーの瞳を光らせている彼は、まるで黒猫のようだ。
「あっ……」
 私は声が出なくて、どうしていいか分からなくなった。なんで、こんなタイミングで。
 日向君もびっくりした表情をしている。でもしばらくして、日向君は呟いた。
「この間、グラス買い損ねちゃったから、買おうと思ってきたんだ。夜なら……」
 日向君はそこで言葉を止めた。夜なら、私には会わないと思っていたんだろう。その日向君の気まずそうな表情からして、あの日、心を読まれていたことがはっきりと証明された。でもそれに動揺している暇なんてなかった。
「どうしようっ……お店が」
 この前までの自分を思い出して、急に涙がこぼれ落ちてきた。目に浮かぶのは、大好きなおじいちゃんの笑顔だ。
 あのしわしわの大きな手とか、優しい声とか、笑顔とか。全部、今もまだ胸に焼きついている。まさか病気になってしまうなんて思ってもみなかった。あんなにあっけなく消え去ってしまうなんて。
「わたしだけ、ずっと……進めてない……。おじいちゃんの死を受け止められなくて、一人でお店を頑張ってるおばあちゃんのことも応援できてない……っ」
 残ったのは、お店と、たくさんのガラス製品。たったそれだけだった、おじちゃんがいた証は。だから店に行くたびにつらかった。おばあちゃん一人だけで切り盛りしている姿を見ると、悲しくて――。
 そのとき、私ははっとした。私の汚い気持ちを読んでしまった日向君は、今、どんな気持ちでいるのだろう。だから私は言葉を続けた。
「あんなお店、つぶれちゃえばいいって……そう思ったの」