▼エスケープ──中野サエ

 あの日から、私は日向君と会ってない。完全に話すタイミングを失ってしまった。ベッド越しから、微(かす)かに誰かの声が聞こえて、私はゆっくりと目を開けた。
「ちょっと、もうさっきから何回も呼んでんだけど。何、学校帰ってきたときから様子おかしいよ。大丈夫? お腹減った?」
「ご、ごめん……大丈夫……」
 お姉ちゃんは、そう、とため息のように返事をして、私の棚から辞書を抜き取り、これ借りるね、と呟いた。私はそれにコクッと頷き再びシーツに潜り込む。
 目を閉じると浮かんでくるのはさっきの朝倉先生だ。大体なんで今、私はこんなに悩んでいるんだろうか。どうすれば、また日向君と元通りになれる? どうすれば、赤い靴の女性の行動の意味が分かる……? 元のような関係に戻りたいっていうことははっきりと分かっているのに、それに辿り着く方法が見つからない。
「あ、そうだ言い忘れてたっ。おじいちゃんの命日、もうすぐだって分かってるよね、サエ。去年みたいにすっぽかさないでね……気持ち、少しは分かるけど」
「……うん。大丈夫。行くよ。行く」
 お姉ちゃんは安心したようにほっと胸を撫で下ろした。なんども自分を説得するように“行く”と胸のうちで繰り返す。大丈夫。落ち着け。泣くな。そう思うたびに、去年の墓参りの映像が、強く頭によみがえる。悲しくて、苦しくて……走って車の中に逃げ込んだ。あの線香の香りを、今でも私は忘れていない。体の奥深くまで染み込んでいる。
「……あ、お母さんが呼んでるよ。ご飯だってよ。ほら、サエ」
「あ、うん」
 しばし回想にふけっていた私の手を、お姉ちゃんが引っ張った。
 その瞬間、さっきまでのことが、まるで幻のように思えた。それと同時に、実感した。……お姉ちゃんは、ちゃんと“死”を受け入れている。みんな、進んでいる。進もうとしていないのは、私だけだ。
「あ、今日唐揚げじゃん! やったっ。サエ、早く選ばんとお姉ちゃん大きいの食っちゃうよ」
 いつもの席に着いた途端、お姉ちゃんは唐揚げに飛びついた。食卓には色とりどりのおいしそうなおかずが並んでいて、それらを上からあたたかい光がやんわりと照らしている。
 いつもなら、すぐにお姉ちゃんと唐揚げの奪い合いになっているのに、なんだか今日はそんな気分になれなかった。それを不思議に思ったのか、お母さんが小首を傾げたとき、電話が鳴った。