「う、うんっ、全然平気……それよりグラス!」 
 おばあちゃんは、振り返ってすぐにお客さんに頭を下げた。
「すみません、同じもの、在庫がありますのですぐ持ってきますね。お騒がせして申し訳ございません」
「全然大丈夫よ、それより片づけ大丈夫?」  
 私はすぐにほうきとちり通りを取りに行ったが、心臓がまだバクバクといつもより速く脈打っていた。おじいちゃんがいなくなってからもう二年が経ったけれど、私の中ではまだあのお葬式のときから時間は止まったままだ。気まぐれなダイレクトメールに、なんど泣きそうになったことだろう。何も知らない人たちに、なんど怒りを覚えたことだろう。おばあちゃんの笑顔に、なんど心を痛めたことだろう。こんなぐちゃぐちゃな私、日向君には見られたくない。なんでだろう。心が見えるからとか、そんなんじゃなくて、きっと“日向君”だから見られたくないんだ。
「サエ、掃除用具持ってきた?」
「う、うん、今行く!」
「破片踏まないでねー」
 ただ、この割れたグラスのように、一度失ったものはもう二度と戻ってはこないのだと、そう思うたびに胸のうちに何かがたまっていった。寂しさ、悲しさが鉛のように重くなり、落ちてくる。誰にも言えないこの汚い感情を日向君がもし読んでしまったとしたら……。私は嫌われてしまうだろうか。そんなの嫌だよ。そう強く思うたび、指の傷はズキンズキンと深くなっていく気がした。息を吸うことさえ苦しくなった。そのとき突然、赤いパンプスが私の目の前に現れた。
「え……」
 その靴は、私が割ったグラスを粉々に踏みつぶしていく。骨を砕くような、ゴリゴリとッいう音が響き、私は呆然とソレを見ていた。
「あ、あのっ……」
 その赤い靴から恐る恐る視線を上げると、そこには見たことのない美しい女性が立っていた。私を見下ろすその表情は冷酷で、でもどこか切なげな表情をしている。
「……なんにも知らないんだから、彼に近づかないで」
 それだけ言うとその人は店を去っていった。頭の中はパニック状態で、ただ、残っていたのは“赤”という印象だけだった。
「サエ、何、今の人」
「分かんない……」
 それはあまりにも突然の出来事で、私は放心状態だった。おばあちゃんもお客さんもびっくりした表情で固まっている。じわじわと、胸のざわめきは確実に音を重ねて大きくなり、そして重くなっていく。歯車が、徐々に動き出していた。だけど私は、ただ呆然とすることしかできなかったんだ。……あの人の痛みに気づきもせずに。