俺は黒いマフラーを巻いて、店から抜け出した。外は曇りで、太陽は少しも顔を出していない。灰色の冷たい朝の空気は乾き切っていて、まるでこんな俺を嘲(ちょう)笑(しょう)しているかのようだった。さっきの宮本さんの言葉が、ずっと胸の中で渦巻いている。
俺はいつか、素直に他人の言葉を信じ、誰を疑うこともなく、相手の気持ちを考えられるような、そんな人間になれるだろうか。この能力があったからこんな曲がった性格になっただなんて、それはただの言い訳にしか過ぎないのかもしれない。俺はもやもやした気持ちを抱えながら、店へと足を運んだ。
店から十分ほど歩くと、行きつけのガラス工房店へ到着した。たくさんのガラス製品が売られているこの店は、宮本さんのお気に入りだ。晴れている日は、四方から差し込む日光がグラスに反射して、商品がまるでダイヤモンドみたいに輝いている。しばらく店内をうろついていたら、この店の店長であるおばさんが俺に声をかけてきた。
他人となるべく距離を置くようにしている俺でも、豊富な知識をもって明るく話しかけてくれるから、俺もこのおばさんとは親しみをもって会話できる。
「今日もカクテルグラス?」
「シェリーグラスです。俺が割っちゃって……」
「やだ、宮本さんに怒られなかった?」
ばしっと背中を叩かれた俺は少しバランスを崩した。店長はもう六十を過ぎているってのにとても若々しい。というかパワフルだ。髪の毛だってほとんど真っ黒だし、しわだってあまり目立たないし、気品のある顔立ちは、とても目を引く。しゃべり出すと、本当に気のいいおばちゃん、という感じだが。
「同じ型のやつでいいわよね? それとも新しいデザインのも見ていく?」
どれも洗練されたデザインで余計な部分など全くなく、澄み切ったグラスはとても綺麗だ。塵(ちり)がひとつついただけで、このグラスの価値が下がってしまいそうなほど、美しかった。真剣にグラスを選んでいる俺に、店長が嬉しそうに再びしゃべり出す。
「適当に見てていいから、ゆっくり選んでいってね」
店長は本当に嬉しそうに微笑んでグラスを見つめていた。なんだか今の笑い方、誰かに似てるな……。俺はふっとそう思い、それが誰だったのかなんども思い出そうと頭を絞ったけれど、結局ダメだった。
「夫も好きだったわ、この会社のグラス……。薄口で口当たりがよくてね、これじゃないとお酒は飲めないってよく言ってたわ。あの世でもこのグラスで飲んでんじゃないかね。のん気に」
俺は「そうですか……」と言った後、少し目を細めて「そうかもしれないですね」と返すと、店長はその言葉にまたにこりと微笑み、恍(こう)惚(こつ)としてグラスを見つめた。
「まだ亡くなってからそんなに経ってなくてね。あのクソじじぃは、あたしより早くに逝っちゃって。上で楽しく過ごしてんだわきっと。全く最後まで勝手な人だよ」
苦笑しながらそのおじさんのことを話す店長の瞳は、一瞬揺れたように見えた。彼の愛惜していたものが、この店に溢れ返っている。だからこの店には独特の優しい雰囲気があるんだろうか。
「一番下の子がとくにおじいちゃん子だったから……」
「おばあちゃん! いるー?」
そのとき、店長の言葉をさえぎって、螺(ら)旋(せん)階段の上から若い女の子の声が聞こえてきた。どこかで、聞いたことのある声だ。階段を下りる足音が近づいてきたその瞬間、俺は思わず目を見開いた。
「おばあちゃん、このグラスー……」
「中野……?」
俺はいつか、素直に他人の言葉を信じ、誰を疑うこともなく、相手の気持ちを考えられるような、そんな人間になれるだろうか。この能力があったからこんな曲がった性格になっただなんて、それはただの言い訳にしか過ぎないのかもしれない。俺はもやもやした気持ちを抱えながら、店へと足を運んだ。
店から十分ほど歩くと、行きつけのガラス工房店へ到着した。たくさんのガラス製品が売られているこの店は、宮本さんのお気に入りだ。晴れている日は、四方から差し込む日光がグラスに反射して、商品がまるでダイヤモンドみたいに輝いている。しばらく店内をうろついていたら、この店の店長であるおばさんが俺に声をかけてきた。
他人となるべく距離を置くようにしている俺でも、豊富な知識をもって明るく話しかけてくれるから、俺もこのおばさんとは親しみをもって会話できる。
「今日もカクテルグラス?」
「シェリーグラスです。俺が割っちゃって……」
「やだ、宮本さんに怒られなかった?」
ばしっと背中を叩かれた俺は少しバランスを崩した。店長はもう六十を過ぎているってのにとても若々しい。というかパワフルだ。髪の毛だってほとんど真っ黒だし、しわだってあまり目立たないし、気品のある顔立ちは、とても目を引く。しゃべり出すと、本当に気のいいおばちゃん、という感じだが。
「同じ型のやつでいいわよね? それとも新しいデザインのも見ていく?」
どれも洗練されたデザインで余計な部分など全くなく、澄み切ったグラスはとても綺麗だ。塵(ちり)がひとつついただけで、このグラスの価値が下がってしまいそうなほど、美しかった。真剣にグラスを選んでいる俺に、店長が嬉しそうに再びしゃべり出す。
「適当に見てていいから、ゆっくり選んでいってね」
店長は本当に嬉しそうに微笑んでグラスを見つめていた。なんだか今の笑い方、誰かに似てるな……。俺はふっとそう思い、それが誰だったのかなんども思い出そうと頭を絞ったけれど、結局ダメだった。
「夫も好きだったわ、この会社のグラス……。薄口で口当たりがよくてね、これじゃないとお酒は飲めないってよく言ってたわ。あの世でもこのグラスで飲んでんじゃないかね。のん気に」
俺は「そうですか……」と言った後、少し目を細めて「そうかもしれないですね」と返すと、店長はその言葉にまたにこりと微笑み、恍(こう)惚(こつ)としてグラスを見つめた。
「まだ亡くなってからそんなに経ってなくてね。あのクソじじぃは、あたしより早くに逝っちゃって。上で楽しく過ごしてんだわきっと。全く最後まで勝手な人だよ」
苦笑しながらそのおじさんのことを話す店長の瞳は、一瞬揺れたように見えた。彼の愛惜していたものが、この店に溢れ返っている。だからこの店には独特の優しい雰囲気があるんだろうか。
「一番下の子がとくにおじいちゃん子だったから……」
「おばあちゃん! いるー?」
そのとき、店長の言葉をさえぎって、螺(ら)旋(せん)階段の上から若い女の子の声が聞こえてきた。どこかで、聞いたことのある声だ。階段を下りる足音が近づいてきたその瞬間、俺は思わず目を見開いた。
「おばあちゃん、このグラスー……」
「中野……?」