だってまさかこんな裏道を朝から通る人なんて、いないと思っていたから。でも、確かに昨日の朝、中野はあそこにいた。
『中野っ……』
中野に気づいた瞬間、俺は目の前の女の人を突き放してしまった。その拍子で女の人は倒れそうになり、俺はそれを慌てて支えた。
『ここまで迫ってもダメなの? 正直、プライドめちゃくちゃなんですけど……』
突き放されたことにショックを受けたのか、彼女は肩を震わせてうつむいている。俺も気まずくて目を逸らしたが、彼女は泣くふりをやめてキッと俺のことを睨みつけた。
『せっかくオトシ甲斐のある子だと思ったのに』
『はあ……』
『反応うす! ちゃんと生きてる?』
目の前の女性はストレートの髪を揺らして俺を指差した。長い爪の先には、これでもかというくらいキラキラしたものがついている。
『本当、期待外れ。雪の忠告受けとけばよかったわ。手強過ぎ。だって日向君私の名前さえ覚えてないでしょ』
『いや……それは……』
『あー! 本当に覚えてなかったんだ。適当に言ったのに! ひっどーい』
彼女は目を見開いて、怒るというよりびっくりしているようだった。俺は、心を読んでおけばよかった……と今更思った。そうすれば、これ以上怒らせずに何か上手いことを言えたかもしれない。
『愛することができない男は、せめてお世辞の言い方くらいは身につけておいた方がいいんだって!』
『お、お世辞……』
『ゲーテの名言よ。まあせいぜい頑張ってね、無気力少年ー。こんな美人さんに抱きつかれて幸福だと思いなさいよっ』
そう言うと彼女は名前を再び名乗ることはなく、俺から去っていった。少ししわの寄った黒いシャツには、予想通り彼女の残り香が染みついている。
そのとき、俺はあることに気づいて小さく声を漏らした。
『……やられた』
ふと襟に目をやると、そこにはキスマークがついていた。黒いシャツに意味深に浮き立っている赤い口紅の跡を、急いでこすって消そうとしたが、しっかりと繊維に染み込んでしまっていた。
そのときの俺は“雪”という名前にとくに反応せずにいた。今思えば、迂闊だった。ただ、学校で中野に会ったらどうやって言い訳しようかという考えでいっぱいで、その名前を聞き落としていた。結局その日の俺は、とことん何も知らないふりをして一日を過ごした。中野も、気をつかったのかそのことに関しては触れないようにしていた。