中野は照れ臭そうに笑って、俺の腕を軽く叩いた。
 そうこうしていると、中野は浴衣のすそを墨につけそうになった。寸前で避けたけれど、本当にあと少しで綺麗な浴衣に黒い染みができるところだった。中野はうんざりししたように袂を持って、ため息をついた。
「浴衣とか似合わないのに、女子は浴衣強制とか誰かが言い出したから……」
「なんで? 似合ってるよ」
 ストレートにそう言うと、中野は顔を赤くした。
「そういうこと、恥ずかしげもなく言える同級生、中々いないよ」 
 もしかしたら、おかしなことを言ってしまったのかもしれない。人との距離を置き過ぎて、中野とどんな距離感で話したらよいのか、時々分からなくなる。なんだか少し気まずくなって押し黙っていると、教室のドアが勢いよく開いた。
「サエお疲れ! ってあれ? なんだ日向もいたんだ、珍しいね」
 俺のことを珍しそうに指差しているのは同じクラスの佐(さ)藤(とう)という男子だった。俺と違ってすごく人懐っこい性格で、男子も女子も分け隔てなく接している印象がある。
「あ、何この『佳澄』って。日向の名前? なんでサエが書いてんの?」
「一度書いてみたくて。日向君の名前の並びって、綺麗だと思わない?」
「サエは名前、カタカナだもんなー」
「困ったもんよ……字の雰囲気、壊しやすいから……」
 さっきから、二人の会話を聞いていると、何か胸に引っかかってしまう。彼が中野のことをサエと親しげに呼ぶたびに、まるで二人の仲のよさを見せつけられているように感じて、いい気がしない。こんな子供染みた感情が自分の中にあったことに驚いた。
「午後になったら受付すぐ変わるから、あと少しだけ頼むな」
 そう言って、佐藤は中野の肩をぽんと叩いてから、教室を去っていったが、それでも胸の中に広がったモヤモヤはすぐには取れなかった。
「……名前、中野のこと、“サエ”って呼ぶ人多いよね」
「あー、ただ単にもう一人中野さんがいるからだと思うけど……あとは呼びやすいからとか」
 名前ぐらいで、俺は一体何をこんなにムカムカしているんだろうか。自分から質問したくせに、俺は素っ気ない態度を取ってしまった。俺もサエと呼びたいなら、そう呼べばいいんだ、そう思えば思うほど、彼女のことを下の名前で呼ぶことのハードルが高くなっていく。
 誰かこの感情を整理してくれ。他の人の感情が読めたって、自分の気持ちに鈍かったらなんの意味もない。