私は慌てて掃除用具入れを漁(あさ)った。奥底に眠っていたのは絞ったままの状態の雑巾。ねじれ放題でもうカチカチだった。それを水につけてなんとか解(ほぐ)して使ったけれど、墨は思ったより手強くて何度拭いても全く落ちない。年季の入った木の机には、しっかりと墨が染み込んでおり、それを上から拭(ぬぐ)ったところで、気休め程度にしかならなかった。
 その様子をずっと見ていた梓が、ドンマイとでも言うように、私の肩を叩(たた)いた。
「私は朝倉先生にサエは遅れるって言っとくから、せめてもっと墨を落とすよう全力を尽くしたまえ」
 それはもう、何もかも諦めて謝罪する気持ちだけ用意しておけ、という忠告だった。私は雑巾を持ったまま頷(うなず)き、梓が教室を出ていく背中を茫然と見つめていた。
 窓から夕日の光が燦(さん)燦(さん)と降り注いで、この墨だらけの机を照らしている。オレンジ色に染まった教室には、椅子や机の影が廊下へと伸びていた。こんな中一人でひたすら雑巾がけする自分は、なんて間抜けな姿なんだろう。そんなことを考えていたとき、突然、ガタ、という物音がした。
「……何してんの」
 雑巾が、一切重力に逆らうことなく床にぼとりと落ちた。教室のドアには、眠たそうな顔をした天才君……日向佳(か)澄(すみ)君がいた。私は反射的に彼の机をバッと隠した。どうしよう。机を汚してしまったことを知ったら、彼は一体なんて言うんだろう。全く予想がつかなくて怖い。ドクンドクンと心臓が跳ね上がり、額にはうっすらと汗が浮かんできた。彼の一挙手一投足に神経を研ぎ澄ませて沈黙に耐えていると、大きな手が私の二の腕をつかんだ。
「……墨、制服についちゃうよ」
 それは全くもって予想外な行動だったので、一瞬理解に遅れ、お礼を言うこともできなかった。そんな私なんて構わずに、彼は淡々とした口調で指示をする。
「早く手、洗ってきなよ。真っ黒だよ」
 彼の言葉をこんなに近くで聞いたのは初めてで、こんな風にちゃんと話してくれることにまず驚いてしまった。やっと脳が追いついたのだけれど、どうやら彼は私がもっと墨で汚れるのを防いでくれたらしい。それより、私を立ち上がらせるために腕をつかんだせいで、日向君まで右手が真っ黒になってしまった。
「ご、ごごめんね日向君、本当に私がポンコツなばかりに、わざとじゃないんだけど、墨をこぼしてしまって、あの、本当にごめんなさ、わっ」
 必死に謝っていると突然頬に冷たいものが触れた。それは、数式をスラスラと説いてしまう、ペンを握るためだけにあったはずの細くて白い指だった。その指は凍ったように冷たかった。
「……墨、ついてた」