半透明のラブレター

「さぼるって言葉、似合わな過ぎるよ、中野」
 静かに笑いながら私の元へ戻ってきた日向君は、一番奥の列の下駄箱に隠れるようにしてかがんだ。私もそんな彼の隣にそっと座り込み、これからどんな会話をしようか、さっきのことをどこまで突っ込んで聴いていいのか今更頭を悩ませていた。
「もうここまできたら、なんでも聞いていいよ」
 心理を見事に読み解かれ固まる私に微笑する日向君を見て、私はさっきと同じように表情を固まらせた。もしかしたら、ミステリー事件の再現VTRにたまに出てくる予知能力者みたいな感じかな、なんて考えていたけれど、真実はそれをさらに上回るものなのかもしれない。
「……読めるっていうか、ぼんやり聞こえる感じなんだ。水の中に潜ったときのような音で、嫌でも頭の中に入ってくる」
 まるで他人事のように呟く日向君は、何にも興味を持ってないような瞳で天井を見つめる。きっとどんな風にでも嘘はつけたはずなのに、どうして日向君はこんなに重要な秘密を私なんかに教えてくれたんだろう。
「だってあんなに純粋な目で詰め寄られたらさ」
 心の中で思ったことにあまりにもすんなりと返事をしてくるので、自分の言葉で言ったことなのかどうなのか、自分でも分からなくなってくる。まだ何も状況を飲み込めないまま、私はどうにか理解を進めるために手を挙げた。
「一日中ずっと、その、心の声ってやつは聞こえてるの?」
「意識を他に移してオフにしていれば、イヤホンしてるときみたいな感覚で、聞こえなくなる」
「盗撮事件のときはどうやって解決したの?」
「あんまり強い感情だとオフにしてても聞こえるんだよ。盗撮事件も、本当は三日前から犯人知ってた。朝会に出られなかったのも、犯人がその時間帯にカメラを仕かけに来るの知ってたから。どうせなら証拠集めるだけ集めた方がいいなって思って。中野が芸棟来たときはさすがに焦ったよ」
 日向君はその後も丁寧に教えてくれた。寝てれば感情は一切聞こえないからよく寝てるんだってこと。テスト中にゲームやってるのは、もしかしたらテストの答えが聞こえちゃうかもしれないから気を紛らわしてるんだってこと。相手の感情を読むのには、距離が関係するんだってこと。
 気になっていること全てに答えてくれたのに、私の中ではどんどんある疑問が膨らんでいった。
「そ、そんなこと私にぺらぺら話してもいいの……?」
「多分ダメだと思う。だから他の人にはバラさないでよ。まあバラしたらすぐ分かっちゃうけど」
「確かに」
思わず背筋がゾッとした。だって日向君、“バラしたらすぐ分かっちゃうけど”のところで目つきが変わったんだもん。……わずかに指が震えている。その震える指のうち、日向君が人差し指だけをつかんだ。
 そして、その人差し指を私の口に押し当てた。
「二人の秘密だよ」
 私の手を握る彼の手は冷たく、そして思ったよりずっと、力強かった。ブルーグレーの瞳に吸い込まれそうになりながら、私は操られたかのように、こくりと頷く。
「……あ、そういえば、この前お詫びにもらったチョコ、美味しかったよ。ありがとう」
 この、どこかテンポがずれていて、マイペースな同級生は、一体この先の私の人生をどれだけ搔(か)き乱していくのだろう。このときの私には、全く想像がつかなかった。

ついにバレてしまった。俺の最大の秘密が。
一日過ぎても、その真実は変わらず、朝起きた瞬間どっしりとその現実が胸の中に襲い掛かってくる。今までバレないように特別気をつけてこなかったつけが回ってきたんだ。だって普通思わないだろう。人の心が読めるとか、そういう特別な能力があるかもしれないなんて。普通に生きていれば、静かに過ごしていれば、誰も俺なんかに興味を持たず通り過ぎていくと高をくくっていたから、変に警戒し過ぎるより普通にしていればバレずに済むと思っていたんだ。
薄いカーテンをすり抜けて降り注ぐ真っ白な朝日を浴びて、俺は重たい体をなんとか起こした。布団をめくった瞬間、自分の服から匂う香水の香りに思わず顔をゆがめる。そうだ、昨日はバイトで疲れ過ぎて、部屋着にも着替えずにこのまま眠ってしまったのだった。高校生のくせにあんなに大人びたバーで働いているなんて、きっとバレたら速攻で教師に呼び出されるだろう。
スマホを見ると、昨日お店に来てくれた女性からのメッセージがたまっていた。高校生であることは隠して働いているので、この女性もまさか俺がお酒も飲めない年齢だなんて想像していないんだろう。自分のこの老け顔に初めて感謝する。一人暮らしをするためには、喫茶店やファミレスなんかじゃとても生きていけない。なんのために生きているのかは分からないけれど、ただとにかく生きていかねばと、そう思って毎朝起きている。
香水臭いシャツを洗濯機に投げ入れて、シャワーを浴びてから制服に腕を通した。昨日は遅番だったので、本当は今日は休もうと思っていたけれど、確認したいことがあるから行かねばならない。
 中野が本当にあの言葉を受け入れたのか、心の中を覗いてみたい。バラされたら記憶を消せばいい。
……もしくは俺が、消えればいいだけの話だ。
遅刻ギリギリの時間だったから、校門には誰もいなかった。学校は、意外と苦じゃない。みんな考えていることがバラバラだから雑音としてしか聞きとれないし、音楽を聴いていればより気が紛れる。
好きでもない適当な音楽をかけながら教室に入ると、中野が俺に気づいたのかブンブン手を振っていた。避けられるか怯えられるかを想像していたので、俺は不覚にも拍子抜けしてしまった。
「日向君、これあげる!」
中野が何かをえいっと投げてきたので慌ててキャッチすると、それは墨で机を汚してしまったお詫びに、ともらったのと同じチョコだった。
「それ美味(おい)しいって、昨日言ってたから。盗撮のとき、助けてくれたお礼!」
中野の屈託のない笑顔を見て、心の中を覗いてもし物騒なことを企んでいたら、記憶を消せばいいと思っていた自分を心底恨んだ。今日は中野の反応を半分怖いもの見たさで学校に来た、なんて知ったら、彼女は俺をどう思うのだろうか。俺は、ほんの少しだけ自分の黒い部分を反省して、自分のバッグの中に手を突っ込んだ。バイト先でタバコを吸う人が多くて最近は喉を痛めてばかりだったので、ちょうどあれが内ポケットに入ったままのはずだ。
「これ、お返し」
「わ、レモン飴(あめ)! ありがとう」
中野に向かって同じようにえいっと投げると、彼女はギリギリ両手と胸でそれをキャッチした。あまりにキャッチが下手過ぎて少し笑いそうになったが、俺はひらっと手を振って教室から出た。一限は選択科目なので、この教室ではないのだ。一歩足を踏み出したとき、閉めたはずのドアの向こう側からクラスメイトの声が聞こえてきた。
いや、聞こえてきたというより、頭の中に流れ込んできた。

“なんで、あの日向と話してんの”
“日向君って、会話してくれるんだ”
 目立たないように地味に過ごしてきた俺が、急にムードメーカーの中野と話してたらそりゃそうなるよな。しまったな、と思いながら俺は長い廊下を歩いた。
▼ノイズ──日向佳澄

学校の帰り道の近くにこんなに治安の悪そうな路地があっていいのかと思うと疑問だ。俺はいつも通り、周りに同じ高校の奴がいないか注意を払いながらバイト先に向かう。
 こういうときだけ、集中して耳を傾けていればいい。便利なのか不便なのかよく分からない能力だ。人込みを掻き分けて聞こえてくるのは、耳をふさぎたくなるほど汚い感情だ。貼りつけた笑顔の裏に潜むのは、決して口には出せない汚い本音ばかり。俺は奥歯を噛み締めて、その汚い心の声に耐えた。
 そのとき、突然聞き覚えのある声がダイレクトに胸の中に届いた。その声に振り返った瞬間、シャツのすそを引っ張られる。
「や、やっと追いついた……」
 目の前には少し息を切らした様子の中野がいて、俺は、思わず目を見開き驚いた。
「イヤホン、忘れてったよ」
「あ、ほんとだ」
 さっき内ポケットの飴を探すときに取り出して、机に置きっぱなしにしてしまったんだろう。わざわざ届けに走ってきてくれたなんて、どれだけいい人なんだ、中野は。こういう人に限って心の中に爆弾抱えてるんじゃないかって、いつもの俺なら疑ってしまうのだけれど、中野の乱れた髪を見たら、そんな気持ちもわいてこなくなった。
 しかし今、問題はそこではない。こんなに治安の悪い場所に女子高生が来たら、危険極まりない。ここは元繁華街だった場所で、今はまともな飲食店はつぶれ、ヤクザが経営しているようなお酒の店や風俗店が多く残っている。辺りを見回すとまともじゃない顔つきの人が多く、女子高生は一人もいない。夕方だからまだマシなものの、もし夜だったら笑い事じゃ済まされない。
「中野。早く帰れよ。こっちの道は安全だから」
 自分でも冷たい言い方だと思うが、同級生の女子に対して心配しているという気持ちを、どんな風に表したらいいのか分からない。
 そうこうしていると、ガラの悪い二人がこっちを指差して何かコソコソ話していた。……もちろん、全部読めた。俺はなるべくそいつらから中野が見えないように隠して、小さく舌打ちをした。それから、中野の背中にそっと手を添えてから、ふっと空気ごと送り出すように力を入れた。
「走って」
 俺の突然の行動に中野は驚きの声を上げていたが、俺は構わず中野の腕をつかみ走った。
 飛び込んだのは、決して安全な店とは言えない、俺のバイト先だ。それでも、外にいるよりは遥かに安全だった。
「び、びっくりした……! 突然どうしたの、日向君」
 まだ心臓がドクドクと脈打っている。聞こえるんだ。さっきの奴らの声、企み、感情が、気持ち悪いほど自分の体の中に流れ込んでくる。
「日向君、大丈夫……? 顔、真っ青だよ」
 早く、早くオフにしなくては。 
 焦ると余計にその意識に集中してしまうからオフにしていても聞こえてしまう。思考を消せ。何も考えるな。真っ白になれ。呪文のように何度も自分に言い聞かせる。
「佳澄、女の子連れ込んで何してんだ」
 心臓の辺りを押さえて呼吸を整えていると、目の前には、おいおいと少し焦りながらも怒っている、いかつい男性が現れた。スキンヘッドにブラウンのサングラスをしたイカつい男性――この店の店長。宮(みや)本(もと)紫(し)苑(おん)だった。その瞬間、一気にこの空間が安全圏に思えて、安堵のため息とともに強張っていた体の力が抜けた。
 薄暗い部屋にはお酒のビンだけが怪しく光り、L字に曲がった長いテーブルに赤い丸椅子がいくつか等間隔で並んでいる。見慣れたその景色が俺を落ち着かせた。客が一人もいないときは、この店には不思議と、まるで理科実験室のような空気が漂っている。静かだと、少し怖い。でもこの空気が、俺はなぜか一番心地よくて落ち着くのだ。顔を見るだけで何も言わない俺に、もう一度、宮本さんが問いかけた。
「何、お前、彼女?」
「彼女に失礼だろ、やめろよ、そういうの」
 本気でうざったそうに答えると、宮本さんは拗(す)ねたように口を尖(とが)らせて、聞いてみただけだろう、と俺の背中をバシッと叩いた。これがまたバカ力で痛いのだ。ムカッとして思わず叩き返した俺を見て、中野は笑みをこぼした。
「ごめんなさい、突然お邪魔してしまって。日向君のクラスメイトの中野サエです」
「はじめまして、宮本紫苑です。この店のオーナーです。佳純にとってはオーナーというだけでなく、保護者的な存在でもあるんですけどね」
 宮本さんがどんな態度を取るか正直どぎまぎしていたが、接客時と同じフレンドリーな対応で安心した。  
「佳澄って、普段学校だとどんなキャラなの?」
「おい、いいってそういうの、聞くなよ」
俺はもう一度うざったいというように質問を遮ったが、中野は嬉しそうにすぐに返答した。
「天才君とか、変人君とか、色々言われてますよ。日向君、本当に学校じゃあんまり話さないから」
「へぇ、でも話さなくてもそんな風に言われるってことは、存在は気にされてるってことなんだ」
「そうですね、日向君、容姿が整ってて目立つから」
「だってよ、よかったな、佳澄」
 何がよかったんだよ、一々背中を叩くなバカ力……と睨みつけたが、よほど学校内での俺の情報が聞けたことが嬉しいのか、宮本さんは楽しそうに中野と話し込み始めた。中野もよくこんなに見た目がヤクザみたいな男と、臆せずに世間話ができるな。そう感心し切っていると宮本さんが声のトーンを少し落として話題を変えた。
「それにしてもサエちゃん。もう、この店には二度と来ちゃダメだよ」
「えっ、せっかく紫苑さんと仲よくなれたのに」
「うーん俺も残念だけど危ないし、それに、なあ……? 佳澄」
 心を読まなくても宮本さんが何を言いたいか分かった。ブラウンのサングラスから透けて見える、鋭い瞳。ここで働いている俺を見たら、きっと今度こそ中野は俺に幻滅する。
「やっぱりここ、危ないんですか……」
 ぽつりと中野が呟いた。
「そう。危ないよ。佳澄みたいに獣染みた奴がいっぱい来るからね。さっきも絡まれそうなところから逃げてきたんじゃないの?」
 宮本さんは、中野の頭を優しく撫でてそう言った。
「誤解を生むようなこと言うなよ」
「佳澄、ちゃんと家まで送れよ」
「分かってるよ」
 俺は机に荷物を雑に置いてから、中野に帰ろうと促した。彼女はもう少しこの場にいたそうな瞳をしていたが、俺は首を横に振った。
「サエちゃん、ばいばい」
「またね、紫苑さん」
 ドアを明けるカランという音とともに、宮本さんの姿は奥へと消えた。
「また日向君の秘密ゲットしちゃった」
「ここで働いてること、内緒にしてほしい……困るんだ、あそこで働けなくなったら」
「分かってるよ、秘密ね」
 中野はへらっと笑ってグーで胸を叩いた。本当に、ことごとく中野には秘密がバレてしまう。なんでだろう。警戒心、もっと強めなきゃダメだな……。それにしても、俺の秘密を知って昨日の今日だって言うのに至って普通な中野にびっくりだ。
「かっこいいね、バーでのバイト! 私もバイトやりたいけど、お母さんとお父さんが高校生のうちは勉強に専念しろってさ」
「……ましてやバーでのバイトなんて、大反対だろうね」
 他(た)愛(わい)もない会話をしているうちに、ようやくあの路地から抜け出せた。チェーンのファミレスやコンビニが立ち並ぶ通りに出ると、道が明るくなり、人通りも多くなった。
「そういや、中野って家どこなの。電車通学?」
 そう問いかけると、中野はなぜか口をつぐんで念を送るように俺を見つめた。
「……西(にし)堺(さかい)駅で、自転車通学?」
「すごい、本当に伝わった!」
 興奮し切っている中野を見ていると、この能力がまるでただの特技のように思えてくる。思っていることを覗かれるなんて、俺だったら気持ち悪くて絶対に嫌だ。一緒にいたいなんて、絶対に思わない。
「そういえば、日向君って学校ではぼうっととしてること多いよね」
「え、そう?」
「もし私も日向君みたいな能力持ってたら、今、日向君が何考えてるか分かるのになー」
そう言って、中野は俺があげた飴玉を口の中に放り込んだ。スーパーボールくらいの大きさの黄色いレモン飴を口に含んで、彼女はまた屈託のない笑みを浮かべた。
「……俺の思考なんか読んだって面白くないよ。きっと」
「確かに。睡眠のことしか考えてなさそうだねー」
 中野はうんうん頷きながらそう言った。悪気はあるのかないのか、オフ状態では不明だ。
 アスファルトの割れ目から草が伸び放題の道を並んで歩く。すぐ真横では何をそんなに急いでいるのかというくらいのスピードで車が走り去っていく。ここに住む人たちの感情が読めたからって一体なんの役に立つというのだろう。
「……中野はさ、こんな能力ほしい?」
 ぼんやり口を突いて出た質問が、茜(あかね)色の空に放たれた。それは、もし俺の能力を知る人が現れたら、俺の能力をどう思うのかとか、怖くないのとか、そんなことより、ずっと聞きたいことだった。ずっとずっと、知りたいことだった。
 今、彼女の心を読めばどう思っているか分かる。でもそれは怖かった。ほしいと言われても、いらないと言われても、きっと俺はどっちでも満足しない。本音じゃないかもしれないから。なのに、聞いた。答えなんか聞きたくないのに、聞いた。中野は、一瞬黙ってから、のんびりした口調で答えた。
「そりゃ、そんな能力あれば、人間関係とか勉強とか全部上手くいくんだ! 最高! って思うけど……でも、全部読めちゃったら、上手くいっちゃったら、つまんなそうだなとも思う。……知りたくない感情も山ほどありそうだし」
 そうだ。知りたくない感情なんてこの世には捨てるほどある。笑顔の裏とか、分かんなくたっていい感情が。こんな能力、死にたくなるほどいらなかった。
「でもさ、その逆もあるよね」
 その言葉に、俺は露骨に眉間にしわを寄せた。
「実はイカついお兄さんがチワワ好きだったり、そういう意外な内面に気づけるんだもんね」
 まあ確かに“見かけで判断”はしなくて済むけれど。中野は怪(け)訝(げん)な表情をしている俺の前に人差し指を差し出した。
「じゃあ今から、日向君が考えてることを当てますっ」
「はあ……」
「あそこのケーキ屋さんのチョコケーキが食べたい」
「それって中野の願望じゃないの?」