「梓、ごめん。私ちょっと」
 あと数秒でチャイムは鳴るところだったけれど、私は走った。多分、日向君は授業が始まるギリギリのこの時間帯に下駄箱にいるはずだ。ここ最近、ずっと私の頭の中を支配していた日向君。
 いつも謎だらけだった日向君、私を助けてくれた日向君。こんなにも誰かに興味を持ったのは初めてだよ。
 私は、もう人けの少ない廊下を走り抜けて、人っ子一人いない下駄箱に向かった。
 端から三番目の列、そこが私たちクラス専用の下駄箱だ。しかし、そこに日向君の姿はなかった。日向君、日向君、聞きたいことがたくさんあるよ。たくさん、たくさんあるのに。
「……中野?」
 うつむいたそのとき、じゃりっという、コンクリートと靴の底がこすれる音と同時に、上から柔らかい声が降ってきた。はっとして顔を上げると、そこには首を傾げた日向君が立っていた。
「どうしたの? もう遅刻だよ、急ごう」
 日向君はそう言った後、なぜか一瞬目を泳がせて、一度も私の目を見ずに靴を下駄箱にしまうと、上履きに履き替え、すっと逃げようとした。私はその長い腕を、つかんだ。
「日向君、お願い待って」
 初めて彼を、こんなに真っ直ぐ見つめた。
 日向君は、少し目を見開いて一瞬固まったものの、こちらを向き直ってじっと私を見つめた。玄関から吹いている、まだ少し肌寒い春の風が、頬を撫(な)でた。
「あ……あのね……、私、聞きたいことがあるの」
 震えた自分の声が、日向君のブルーグレーの瞳を揺らした。
「ねぇ、どうして墨がついてるって、言わなくても分かったの? 授業だって、困っているときには言わなくても分かってくれるし……。ねぇ、昨日の盗撮事件を解決したのは日向君なんでしょう?」
「……俺、未来なんて見えないよ」
「私、そのことまだ一度も口にしてないよ」
 そう言うと、日向君は顔面蒼(そう)白(はく)になっていった。未来が見えるのかも、なんてそんなバカげた発想、いくらなんでも正面から聞けるわけがなかった。ただ、どうして彼は、いつも人と一定の距離を置きたがっているのか。日向君はとても分厚いガラスの壁で自分を覆っているようで、私はその理由が知りたかったんだ。
「ねぇ。もう逃げないで」
 ねぇ、知りたいの。君のことをもっと。教えてほしいの。
「どうして日向君は、言わなくても人の心が分かるの?」
 するりと、魔法のように素直に出た質問。私の中では、最初から質問はこのひとつしかなかったような確信があった。