これは例えばの話なのだけれど、もし人の心が読めたなら、誰かの頭の中を覗(のぞ)いてみることができるのなら、私は真っ先にあの天才君の考えていることを知ってみたいと思う。別に好きとかではない。ただ、あのやや大きめの紺色のセーターから覗く白く長い指が、まるで自分の住所を書くかのように、あまりにすらすらと数式を解いていくので、もしかしたら脳より先に指が動いているんじゃないか、書きながら理解しているのではないか、と不思議に思ったからだ。
文系脳の自分とは、きっと脳のつくりから違う。ああいうタイプの人間に生まれてみたかった、という憧れが、彼を見るたびに生まれてしまう。彼は一体どんな人と一緒にいたら、心から楽しいと思えるのだろう。きっと、私なんかじゃ脳の質に差があり過ぎて、話し相手にもならないだろうな。私はそんなことを考えながら、目の前に差し出された数字を睨み、シャーペンをぴくりとも動かさずに、ただただ過ぎていく時間に焦(あせ)りを感じていた。
ふと、斜め前の席の天才君を眺めてみる。彼は既に全ての問題を解き終えたのか、頬杖をついて窓の外を眺めていた。まだ夏の暑さを残した、九月の太陽が彼の白い肌と黒い髪を容赦なく照らしている。灰色のような、深い青のような、少し不思議な色の彼の瞳は、新入生や先輩方を騒がせるのには十分だった。
なんだか透けて消えてしまいそうな、そんな儚(はかな)さを孕(はら)んだビー玉みたいなその瞳は、いつも長い前髪が邪魔をしている。その瞳がハッキリと誰かに向いたことはなく、私たちクラスメイト全員が初めてこの教室で顔を合わせたあの日から、それは変わらない。
極力誰とも話さずに過ごしたいのだと、そんな風に思っているように見えて、なんだか少し関わりづらい。それでもなぜか、ぽつんと世界に取り残されたような表情をしているときがあると、なんだか胸がぎゅっと痛くなって、目が離せなくなるのだ。無理やり彼の視界に割り込んで、おーい、生きてるかって、手を振ってみたくなるのだ。
「こっち、向け」
心の中で唱えてみたけれど、彼はピクリとも眉を動かさずに景色を眺めていた。
テスト終了の合図が聞こえると、一気に緊張の糸が解けて、教室中に疲労と達成感が広まっていく。みんな口々に不安を抱いた問題の答えを確かめ合い、安心したり焦ったり忙しくしている間も、彼はあくびをひとつしてから、机に突っ伏したのだった。