気づけば立ち上がっていた。箸が音をたてて勢いよくテーブルから転げ落ちる。
「ちがうっ」
わたしは、絶叫した。
「おにいはプロ野球選手になりたかったんだっ」
「光乃っ」
「でも、なれなかった。なれなかったっ」
泣きたくないのにぼろぼろ涙が落ちた。しゃべりたくないのに口が勝手に動いた。
上手く呼吸できなくて、息が苦しい。
「わたしは、ぜったい、おにいみたいにはならないっ」
なにかが顔にぶつかった。お父さんの右手だった。左の頬がじんじんしてきたので、引っぱたかれたんだと理解した。
「光乃、おまえ、隆規がどんな気持ちで」
「知らないっ」
「いいかげんにしろ!」
普段、寡黙で穏やかで中立で無関心なお父さんが、本気で怒っていた。ごうごうと伝わってくる怒りの振動に、わたしは感化されてさらに絶叫し、お母さんは座ったまま涙を流していた。
だから、おにいの野球の話はタブーなんだ。
ウチが、こわれるから。
「どうにもならない話をいつまでも引きずるんじゃない」
お父さんは正論を吐いた。それは、いかにも大人が言いそうな台詞で、むかついた。
「隆規を理由にして将来から逃げるんじゃない」
どこか懇願するような声。怒りよりも悲しみを多く含んでいるような。
諦めの響きだ。なんの希望もない声色だ。
ぐしゃぐしゃな顔のままイヤイヤと首を振った。
「大人になりなさい」
「いやだっ」
「光乃!」
「大人になんかならないっ」
おにいを理由にして逃げているわけじゃない。
将来にドキドキする理由を、未来をわくわく待つ理由を、すっかりなくしてしまっただけだよ。
勢いにまかせて家を飛び出した。お父さんとお母さんはなにか言っていたけど、追いかけてはこなかった。
閑静な夜道をあてもなく歩く。ぬるい風が少しずつ涙を乾かしていく。
夏のにおいがした。ぐずぐずの鼻をすするのといっしょに、しめっぽいその香りを肺いっぱいに吸いこんだ。
頭がすうっと冷えてくる。
同時に、ぼうっと熱くなる。
サボを引っかけた両足が歩を止めたのは、さびれたバッティングセンターの前だった。