「働こうかなあ」
空になったマグカップふたつをシンクに下げながら、なんとなしに言ってみた。
「なに言ってるの。せっかく進学できる環境があるんだから大学行っときなさいよ」
予想通りの答えが飛んできた。
「だって、やりたいこととかないし。そんなふうで進学したってお金と時間の無駄じゃん?」
「無駄なことなんてないよ。大学で、夢が見つかる場合もあるんだよ」
「……べつに、夢とか、いらないんだけど」
ぼそっとこぼした言葉は、お母さんには聞こえていないようだった。
「まあ、なんにせよ、そのアタマはなんとかしたら?」
茶髪のことを言われているんだと思った。なにも答えない。
「最後くらいしっかりしなさい。卒業したらもう子どもじゃなくなるんだよ」
みんな、どうやって大人になっていくんだろう。
大人になるって、いったいなんだろう。
高校を卒業したら自動的に大人になるのかな。髪を黒くしたら大人になれるのかな。大学に行ったら。就職したら。結婚したら。
――夢を、捨てたら。
マグカップを洗う手が止まった。蛇口からあふれ出る水は止まらなかった。
白い泡が渦になって流れてゆく。だんだん、その泡も消えてゆく。やがて完全な透明になった渦を動かずに見ていた。おにいの夢は、あの泡だって思った。
どこへ行ってしまったんだろう。
おにいの夢は。気持ちは。待っているはずだった未来は。どこへ、流れていったんだろう。
おにいはいま、なにを思って生きているのだろう。
「お母さん。おにいは、甲子園に行きたかったんだって。プロ野球選手になりたかったんだって」
返事がなかった。お母さんはいつの間にかドライヤーをかけに洗面所へ行ってしまっていた。