「……うん、がんばって」
迷って、迷って、無理だけはしないでとは、言わなかった。言えなかった。どうにもお門違いな気がしたのだ。
またも元気な挨拶を残して教室へ戻ってゆくうしろ姿を、見えなくなるまで見送った。小さな背中だ。
あの背中に、この夏、6番が乗っかるかもしれない。たぶん、乗っかる。
「いい子だね」
胸の震えがおさまらないまま、ひとり言のようにぽつんとこぼした。涼がフンと鼻で笑う。
「『女の子だから』って言われちゃったよ」
「おっまえ、そこかよ」
「涼がふだん女の子扱いしてくれないからなあ」
「わはは、だって光乃ってヤンキーだろー」
ブスとか、怪獣とか、ヤンキーとか。みんなしてさんざんの言いようだな。そう言う涼だってサルみたいな顔じゃんか。
ぶーたれている頬を涼の指先がチョンとつつく。かたい指先だ。手のひらがつぶれたマメだらけなのも、知っている。
倉田くんも、あんなかわいらしい顔して、きっとこういうゴツイ手をしているのだろう。
「ねえ、あんなに上手いのにすごい謙虚だね。ほんとにいい子だよ。まさに野球少年って感じ。野球の神様に愛された、野球するために生まれてきた子なのかも」
褒めちぎってしまった。自分で言っといてチョットむずがゆい。
「いやあ、まあ倉田はマジで野球しかできないからなー」
「え。そうなの?」
「あいつ赤点ばっかよ? 倉田がレギュラー落ちしたら期末がボロボロだったと思っとけばマチガイナシ」
おどけたように肩をすくめ、涼が教室へ入っていく。遠くにゴンちゃんの姿が見えたのであわてて後に続いた。ドスドス、怪獣みたいな足音がここまで届いてきて、嫌になった。
幻のマカロンを机の横に引っ掛けながら、『女の子だから』という言葉を思い出す。
あんなことを言ってくれるのは倉田くんだけだ。故障だけはしないでほしいと願うついでに、どうか赤点も回避できるようにとひそかに願った。
倉田くんが6番を背負っているところを見たい。