やがて矢野ちゃんに呼ばれた柚ちゃんはなぜか何度もお礼を言いながら去っていった。なにかふっきれたようなハツラツとした表情は、たとえ自身を鼓舞するためにそうしているのであっても、まったくの嘘ではないように思えた。

きっと柚ちゃんはこれから、朔也くんというパイプを通してでなく、直に新しい空気をいっぱいに吸いこんでいくのだろう。

恋をして世界を自分のなかに入れた少女は、恋を失うことで世界のなかへ出ていったのかもしれない。
もしかしたら、彼女にとっての本当の意味での青春は、これから先に待っているのかもしれない。

そんなふうに思う。


「光乃さん」


小さな背中をまぶしく見送っているところに名前を呼ばれた。いつもより幾分か落ち着いた声で、ちょっとどきっとした。

倉田朔也くんは、ピカピカの試合用のユニフォームを着ていた。


「おはようございます」

「おはよう。晴れたね。よかった」


朔也くんは緊張した様子で小さくうなずく。

そう、天気なんかはどうでもいいんだ。もっと大切なこと、話さなくちゃいけないことがあるね。


「試合に、出るんだね」

「はい。出ます」


静かな声。決意に満ちた目はおとといの夜からまったくブレない。


「ごめんなさい」


そこにひとつの影がぽとりと落ちた。ふいうちを食らったせいで返事が追いつかない。続きをじっと待っていると、朔也くんは沈んでいく言葉をひとつずつすくい上げるように話し始めた。


「光乃さんのお兄さんのこと知ってるのに、無神経だって自分でも思います。あの試合、おれ、実は行ってて、一部始終を見てました。ぜんぜん関係ないおれでも尻込みするくらいコワイ光景だったから……村瀬さんご本人や、光乃さんの気持ち、想像もつかないです」


きょろきょろと2回、右と左とを行ったり来たりした茶色の瞳が、最後は真ん中で停止した。