「どうしたん? 石膏像そんなに怖い顔で睨みつけて」
ボルゲーゼのマルス胸像をじっと見つめていた私に、日吉が訝しげな表情で問いかけた。
軍神であるマルスは鍛え上げた強靭な肉体が特徴でありながら、下を俯きヴィーナスを想うかのような物憂げな表情をしている。
美大受験の定番のモチーフではあるが、私はまだ二回ほどしか描いたことのないものだった。
葵の予知を聞いてから、意識してはいけないとわかりつつも、どうしてもマルスの石膏像が視界に入ってしまう。
ずるはしたくない。だけど、前回の講評でぼろくそに言われたことのショックがあまりに大きすぎて、もうあんな思いをしたくないという気持ちが、私の視線をマルスに向けてしまう。
こんなことはよくない。わかってる。だけど、当たりをつける練習くらいなら。
「おい、萌音。早く名簿に名前書かないと、いい席取られるぞ」
日吉の声に煽られて、私は雑念を払うように首を少し横に振ってから、教室に向かった。
週になん度か、その日に決められたモチーフを科の皆で描いて、先生方が順位付けをする講評会がある。
教室に戻ると、成績のいい順に絵が並び替えられており、皆の前で先生が厳しい講評をするので、教室にはいつも以上にピリピリした空気が流れている。
一日かけて描いた絵を、先生方は容赦なく切り捨て、厳しい言葉を浴びせる。先生によって評価が分かれたりするので、自分でどの言葉を編み砕いて吸収すべきなのか、非常に神経を使う。
講評の仕方は単純なもので、先生がいいと思った作品に自分の持ち点内で評価をつけ、シールを張る。
金のシール、銀のシール、赤のシール、青のシール、黄色のシールの順に成績がよく、私はいつも青と黄色だらけだった。金なんて一度ももらったことがない。
上位十名はほとんどが浪人生で、その中に現役生が入ることは非常に稀。もし入ることができたらとても褒められる。
遠藤ちゃんは一度上位十名に入ったことがあり、現役生からは一目置かれている。そんな遠藤ちゃんと違い、私はいつも最下位ではないことを祈るばかりで。
いつも、上位に入りたいという気持ちではなくて、最後だったら恥ずかしい、という気もちとの戦いだった。
そんなレベルの私が、前日にマルスのデッサンの練習をしたくらいで、順位が大きく変わるわけもない。基本ができているかいないかが問題なのだ。
だから、ほんの少し練習をしても、いいだろうか。もう、心臓をまるでアルミ缶を握り潰すようにされることはこりごりだ。
私は、講義後にマルスの石膏像の写真を撮り、家に帰って当たりをつける練習や、筋肉のつき方、ヘルメットや装飾品の陰影、物憂げな表情を生み出す瞳の描き方の練習をした。
スマホの画像だけじゃ練習になんかならないだろうけど、「最下位は取りたくない」という思いが強すぎて、私は自分のずるさを抑えつけることができなかった。
こんな姿、予備校の誰にも、葵にも見られたくない。けれど、私の鉛筆はなん度もなん度も紙の上を往復した。
ボルゲーゼのマルス胸像をじっと見つめていた私に、日吉が訝しげな表情で問いかけた。
軍神であるマルスは鍛え上げた強靭な肉体が特徴でありながら、下を俯きヴィーナスを想うかのような物憂げな表情をしている。
美大受験の定番のモチーフではあるが、私はまだ二回ほどしか描いたことのないものだった。
葵の予知を聞いてから、意識してはいけないとわかりつつも、どうしてもマルスの石膏像が視界に入ってしまう。
ずるはしたくない。だけど、前回の講評でぼろくそに言われたことのショックがあまりに大きすぎて、もうあんな思いをしたくないという気持ちが、私の視線をマルスに向けてしまう。
こんなことはよくない。わかってる。だけど、当たりをつける練習くらいなら。
「おい、萌音。早く名簿に名前書かないと、いい席取られるぞ」
日吉の声に煽られて、私は雑念を払うように首を少し横に振ってから、教室に向かった。
週になん度か、その日に決められたモチーフを科の皆で描いて、先生方が順位付けをする講評会がある。
教室に戻ると、成績のいい順に絵が並び替えられており、皆の前で先生が厳しい講評をするので、教室にはいつも以上にピリピリした空気が流れている。
一日かけて描いた絵を、先生方は容赦なく切り捨て、厳しい言葉を浴びせる。先生によって評価が分かれたりするので、自分でどの言葉を編み砕いて吸収すべきなのか、非常に神経を使う。
講評の仕方は単純なもので、先生がいいと思った作品に自分の持ち点内で評価をつけ、シールを張る。
金のシール、銀のシール、赤のシール、青のシール、黄色のシールの順に成績がよく、私はいつも青と黄色だらけだった。金なんて一度ももらったことがない。
上位十名はほとんどが浪人生で、その中に現役生が入ることは非常に稀。もし入ることができたらとても褒められる。
遠藤ちゃんは一度上位十名に入ったことがあり、現役生からは一目置かれている。そんな遠藤ちゃんと違い、私はいつも最下位ではないことを祈るばかりで。
いつも、上位に入りたいという気持ちではなくて、最後だったら恥ずかしい、という気もちとの戦いだった。
そんなレベルの私が、前日にマルスのデッサンの練習をしたくらいで、順位が大きく変わるわけもない。基本ができているかいないかが問題なのだ。
だから、ほんの少し練習をしても、いいだろうか。もう、心臓をまるでアルミ缶を握り潰すようにされることはこりごりだ。
私は、講義後にマルスの石膏像の写真を撮り、家に帰って当たりをつける練習や、筋肉のつき方、ヘルメットや装飾品の陰影、物憂げな表情を生み出す瞳の描き方の練習をした。
スマホの画像だけじゃ練習になんかならないだろうけど、「最下位は取りたくない」という思いが強すぎて、私は自分のずるさを抑えつけることができなかった。
こんな姿、予備校の誰にも、葵にも見られたくない。けれど、私の鉛筆はなん度もなん度も紙の上を往復した。