重たい木の扉が開いて、オレンジ色の光が真っ直ぐ差し込んできた。

「……下手くそ」
そこには、白シャツにパンツ姿の、少し大人っぽくなった葵が立っていた。
ああそうか、また葵の過去を見てしまっているのかもしれない。
だったら最後くらい、夢を見させてほしい。最後くらい、現実を見ずにこの夢に甘んじてしまいたい。
彼は、ゆっくりと私に近づいて、背後から手を回して、片手でカノンを弾いてくれた。
片手でも段違いに上手で、私はすごい、と思わず声をあげた。

「すごい……葵……」
「なんで泣いてるの」
「葵、死んだって聞いたけん……」
「じゃあ、今目の前にいるのは誰……?」
「幻……もしくは過去の葵」

うつろな瞳のままそう答えると、彼は私の涙を拭って、幻でも人に触れるんだ、と笑った。
私は葵の指、手首、腕の順に掴んで、彼が今ここにいることを確認した。
それから徐々に、今の現状を理解し始めた。
「本物……? でも、耳聴こえてる……」
震えた声でそう問いかけると、葵は私の手を引っ張り、そして自分の耳に触れさせた。
プラスチックのような固いものに触れて、それが補聴器だとすぐに分かった。
「聴こえなくても、記憶の音を頼りにピアノを弾いてたら、徐々に心が解れてきて、補聴器で音を拾えるくらいには聴力が戻ったんだ……」
「私の声、聞こえるん……?」
「うん、聞こえる。聞こえてる、萌音の声」
私は、恐る恐る彼の頬に両手で触れて、立ち上がった。
彼の体温を手の平で感じて、私はバカみたいに彼の名を呼ぶ。

「……葵」
「うん」
「清峰、葵」
唇が震えて、なん度も呼んだ名前なのに、上手く発音できない。
それでも葵は、優しく答えた。
「聞こえてるよ、萌音」
「葵、葵、葵……」
「夢かな……萌音が俺の目の前にいて、名前を読んでるなんて……」
そんなの、私のセリフだよ。どれだけ会いたいと願っていたと思ってるの。どれだけ不安で涙を流したと思っているの。
どん、と葵の胸を叩くと、葵は私の拳を大きな手で包んで、今までのことを語りだした。

「ここのピアノを運営していた先生が、亡くなったんだ……。先生とは嘉音という名前で、二人で活動していたんだ」
そうか、そういうことだったのか。私は葵の小さな声をひとつも聞き漏らさない様に耳をすませた。