君が今どれだけ傷ついているかなんて、とてもじゃないけれど想像がつかない。
ここで葵のピアノを聴いていたあの日々が、とてつもなくかけがえのない時間だったように思える

……神様、お願いです。
葵からピアノを、取らないでください。
葵から音楽を、奪わないでください。

ピアノは、葵の未来そのものなんです。

お願いです。私の耳を半分、葵にあげたっていいです。
だって、絵は音が聞けなくたって描けるから。
お願いです。お願いです、神様。

どうしてでしょうか。一体葵が何をしたというのでしょうか。
彼は、賞も名誉も望んでいません。
ただ、ピアノを弾くことが好きで、楽しくて仕方なくて。
それなのに、こんな現実あんまりです。

あんまりです、神様。

私はピアノを見つめたまま、静かに涙を流した。
……彼にかける言葉が、やっぱりまだ見つからない。見つかるはずがない。
あの日私は、音楽室で泣いて目を腫らしてしまったせいで、葵に会いたくなくて早退した。




裕子の言った通り、確かに一見普通の家の見えるが実はピアノ教室、という場所は多かった。
ネットに出ていなかった教室も見つけ、中に入って聞いてみたが、それでも手がかりは掴めなかった。
大丈夫、諦めない。一日で探し出そうなんて思っていない。
そう思い、駅までUターンしようとしたが、ボードをもって駅とは反対方向に行く人とすれ違い、近くに海があることを知った。
どうせなら、近くまで行って見てみよう。そう思い、私は自転車にまたがって直進した。

……海を見たのはいつぶりだろう。
ばあちゃんとはあまり遠出をしなかったし、大学のこともそういやなんだかんだ海に一緒に行ったことはなかった。
坂の上で自転車を止めて、私は思わず感嘆のため息を漏らした。
オレンジ色の光が差した海は、目を開けていられない程眩しく、でも、なんだか泣きたくなるほど美しかった。
もうすぐ日が沈む。葵もどこかでこの景色を見ているだろうか。そんなことを思った。

……すると、どこか遠くでカノンが聞こえた。
空耳だろうか。それともとうとう幻聴が聴こえるようになったのだろうか。
振り向いても近くにピアノ教室らしきものはない。あるのは一軒の古びたカフェだけだ。
私は、自転車の漕ぎすぎでパンパンになった足の痛みを、不思議なことにそのカフェを見た途端に感じてきた。
「少し、休むけ……」