葵はバッグを持ったまま、黙って彼女を睨みつけている。
緊迫した重い空気が、あたり一面に流れていた。
「そのバッグ、返してくれる? ……ああ、そうか。もう聞こえないんだっけ、葵君」
「萌音のところには、行かせない」
「何? なんて言ったの。雨で聞こえないわ」
私のところには行かせないって、一体どういうこと。
全く予想とは違う展開に、頭の回転がついて行かない。
葵はなぜ下田講師に会いに来たのか、下田講師はなぜ私に会おうとしていたのか。
どちらの理由も、今の段階では全く予想がつかなかった。

「ねぇ、その中に大事なものが入ってるの。返して」
葵は、バッグを催促するジェスチャーを無視して、バッグを下田講師とは反対側に投げた。
開いたチャックの隙間から、銀の尖った何かが見えた。……包丁だった。
もしかして下田講師は、私を刺すつもりだったのか。
予期せぬ自分への殺意を目の当たりにして、一気に血の気が引いていくのを感じた。
「殺しはしないわよ……。ただ、受験できない様に手を痛めつけてやろうと思っただけ」
葵は、並々ならぬ集中力で、彼女の口を読んでいるようだった。
「美大を目指していることは葵君の親から聞いて知っていたから、センター試験の会場で待ち伏せて……。今から行くところだったのに。人を不幸に陥れたあのクソガキの未来を、ぐっちゃぐちゃにしてやろうと思ってたのに」
それは、今まで聞いたことのないほどの憎悪に満ちた低い声で、全身を凍てつかせるには十分な破壊力だった。
……そうか、私は、これほど恨まれても仕方のないことをしたんだな。
どんなに憎くても、どんなに許せなくても、あんなことをしてはならなかった。
悪に悪で返すことは、また新しい悪を生むだけなのだと、どうしてあの時の私は気付けなかったのだろう。
「私がこの六年間、どんな風に生きてたか分かる……? 離婚して、実家も追い出されて、こんなボロいアパートでひとり暮らし。それもこれも、あの小娘があんなタイミングで旦那を連れてきたせい!」
やめて。
そう思ったときは、もう既に遅かった。
下田講師は、手持ちしていたナイフで、葵に襲い掛かった。
ポタポタと、鮮血が濡れた灰色のコンクリートに落ちて、黒くなっていく。
葵は逃げなかったし、目も逸らさなかった。このことを予知していたからだろうか。何も恐れずにそこに立ち尽くしてた。