『僕ーピアノ=0』。あの数式を、葵は今再び頭の中で思い描いているように感じた。
「……え、待って、葵どこ行くの!?」
それは一瞬の出来事だった。私が目を少しだけ離した隙に、葵は一歩あとずさってから、人込みに徐々に溶け込むように消えていった。
すぐに追いかけたけれど、人込みのせいで葵の姿がよく見えない。
普段体を動かしていないせいで、白い吐息が口から漏れて、すぐに呼吸が乱れた。
「すみません、通ります、通りますっ……」
ミノル先輩の事件を見に来ただけの野次馬と、お祭りを単純に楽しみにしていた人で溢れかえっており、この町のほとんどの人が今ここにいるんじゃないかと思うほどの人込みだった。
葵、どこに行くの、葵。
なぜか今彼を見失ったら、もう二度と会えないような気がした。
だから私は、息が切れようと人にぶつかろうと、必死で彼の後を追いかけた。

やっと人込みを抜けると、駅とは反対方向に向かって歩く葵を見つけた。
私は、一度深く息を吸って呼吸を整えてから、足に力を込めて走った。
あともう少し、あともう少しで彼に手が届く。念力で、待てという指令が伝わればいいのに。そんなことを思いながら最後の力を振り絞った。
「待って葵!」
パシッと腕を掴むと、葵は今まで見たことのないほど泣き出しそうな表情で私を見つめて、すぐに腕を振り払った。
それから、この町唯一の横断歩道を渡り切って、道路の向こう側へ行ってしまった。
すぐに追いかけようとしたが、タイミング悪く信号が赤に変わってしまった。
冬の凍てついた風が耳を掠めて、痺れるような寒さが全身を襲う。誰もいない真っ暗な道路に、信号機の赤だけが妙に浮いて見える。
皆お祭りに行っているせいか、生活音もしない。人気もない。車もない。いっそ渡ってしまおうか。そう思ったけれど、葵の本心を聞くにはこの距離が必要な気がした。
「葵、どうしたん、何があったん……?」
手話で必死にメッセージを送ると、葵は自分の耳を指さした。
それから、軽く握った右手を顔の横に持ってきて、手の甲が自分で見えるように手首を素早く回転させた。

『自分の耳が、許せない』。

葵ははっきりと、手話でそう伝えた。
遠くでミノル先輩を乗せたであろうパトカーの音が聞こえる。
苦しそうに閉じられた葵の口から、白い吐息が少しだけ漏れた。
信号が青に変わった。それでも足は動かない。