気付いたら私は、母親の頬を平手でビンタしていた。知らぬ間に手が勝手に動いていた。
「……葵が、中学三年間、どんな気持ちであなた達と暮らしていたのか、よく分かりました。……地獄のようだったでしょうね」
「なんなの……萌音ちゃんあなた今私に何をしたのか分かってるの」
「親なら、手話のひとつでも覚えたらどうなんですかね」
葵が、空気を察したのか、もう帰ろうというように、私の腕を引いた。
けれど、私は悔しくて悔しくてたまらなくて、葵の手をすぐに取り払い叫んだ。
「葵が、どんなに張り詰めた思いであんたらの口を読んでいたか分かるん!? あんたに、勝手に期待されて勝手に見捨てられた葵の気持ちが分かるん!?」
今、目の前の人が何を話しているのか。自分のことを話題にしているようだけど、何を言っているのか分からない。
それがどんなにストレスで怖いことなのか、この人たちは分かっていない。

『才能』っていうのは、いつでも誰かが勝手に決めるのだ。
誰かに評価してもらって初めて『才能』というものは生まれるのだ。
他人によって勝手に生まれたものを、
膨大な期待に煽られながら自分自身で育てていかなければならないなんて、そこから先はあなた次第ですよ、なんて。
それを背負って生きていくには、相当タフな心が必要だったろう。
葵は、どれだけのプレッシャーに耐えて、物理的な痛みにも耐えて、魂を削ってピアノを弾いていたのだろう。
そしてピアノを弾かなくなった今、葵の心には一体何が残っているんだろう。私には、想像もつかない。

「葵は、普通の人間なんです……」
特別痛みに強いわけでも、我慢強いわけでもない。私の知っている葵は、普通の男の子だ。
そこまで言い終えると、葵は再び私の腕を掴んで引っ張っり、館内を出た。
葵の母と晴がどんな顔をしていたのかは、俯いていたせいで見えなかった。

葵に手を引かれながら、駅近くの公園までやってきた。
少し土埃のついたベンチに座り、心を落ち着けるように一度深く息を吸った。
葵は何が起きたのか、何もわかっていないだろう。でも、全てを伝えたら葵はきっと傷つく。
特に葵の母親の言葉は伝えたくない。
何をどこから説明したらよいのか分からなくて、でも何か伝えなくてはならないと思って握りしめたボールペンとノートを、葵は横でじっと見つめていた。