確信をもってそう言うと、葵は少し困ったような顔をして笑ってた。私はその曇りに気付くことが遅かったのかもしれない。
でも、葵のその暗い部分に触れる日は意外にもあっさりやってきた。

その日葵は昼休みに練習を終えた後、音楽室に大切な楽譜を忘れていった。たまたま音楽室の掃除当番だった私はそれに気付き、葵のピアノ教室まで楽譜を届けてあげることにした。
葵のピアノ講師は、若い女性だと聴いていた。有名な音大卒で、就職はせずに実家でピアノ教師をする道を選んだ。
個人の家で経営しているピアノ教室で、窓がとても多い家だったが、いつもカーテンが閉め切ってあったので外からは良く見えなかった。
外観は至って普通の家。インターホンを押したが、壊れているのか音は鳴らず、開けっぱなしだった教室に恐る恐る足を踏み入れた。
「葵、いるのー?」
奥の部屋からは、葵以外の生徒なのか、恐ろしく強張った固い音色が聴こえる。
しかし、一対一でしか教えていない教室だと聞いていた。だとしたらこの音色は、葵のものになる。
なんだかそのことにゾッとして、私は教室のドアを開ける前に立ち止まった。
ドアの隙間から見えたのは、若い女性の後姿と、狂ったようにピアノを弾く少年の後姿……葵だった。
女性は、長く真っ直ぐな黒髪を後ろでひとつに束ねて、灰色の部位ネックの薄いカットソーに、カーテンみたいな薄いスカート姿で、体形はマッチ棒みたいに細い。
華奢なのに、なぜかとても威圧的な重い空気が周りに漂っていて、防衛本能なのか、私は息をひそめた。
葵がミスをすると、そのピアノ講師は、鍵盤を拳で殴り不協和音を部屋中に響かせた。葵の細い肩が一瞬びくっと震えたのを、私は見逃さなかった。
「次のコンクール、優勝できなかったら、また痛い思いしちゃうね、それは嫌だよね、葵君」
葵はなにも言葉を発しないし、頷きもしない。
そのことに苛立ったのか、彼女はもう一度鍵盤を強く叩いた。

この人は、音で葵を殴っている。
狂気に満ちた教室であることは、幼い私にもすぐに分かった。

「一番じゃないと意味ないのよ。なんでこんなとこでミスするの。なんでなの。やる気がないの。優勝以外意味ないのよ」
音の暴力に続いて、今度は言葉の暴力だ。
大人の女性がこんなにヒステリックになっているのを初めて見た私は、恐怖でその場から動けなくなってしまった。