「……なんで」
「え?」
「なんで、逃げようとするんだよ。俺はただ、さっき弾いてた曲がなんて曲か聞いただけなのに」
どこかすねたような、それでいて照れたような口調に、ついポカンと口を開けてしまった。
……たしかに、彼の言うとおりなんだけど。
どうしたって彼に演奏を聴かれてしまったという事実を認めたくなくて、つい逃げ出そうとしてしまった。
「もう一度聞く。今弾いてたのは、なんて曲?」
だけど、私の心情を知る由もない彼は、今度は力強い声で私にたずねた。
もしかして……彼は、偶然私のピアノを聴いて、偶然曲が気に入って、その曲名をどうしても知りたくなったのかもしれない。
だからこんなにも、しつこい……と言ったら失礼だけど、何度も同じ質問を投げてくるのかな。
そう思ったら、なんとなく心がほだされて、胸の奥が熱くなった。
だって、今、弾いていた曲は。
今、彼が私にたずねている曲の名前は──。