「おれの顔が見えるか? 声は、聞こえるか?」
見える。聞こえる。かすんだ視界のピントが合っていく。
「なあ、いま目の前にいるやつがおれ以外の『なにか』だって、奈歩は思う?」
ぶんぶんと首を横に振った。
「じゃあこわいことなんかひとつもないだろ」
「うん……」
「な? だからもう大丈夫。ゆっくり吐いて、そしたら吸って。できるよな」
言われたとおり、冷たい空気を吐いては、吸った。くり返しているうち、心のまんなかでうっ血していた赤い液体が、ようやっと身体中にめぐり始めた気がした。みっちゃんはいったいどんな魔法を使ったんだろう?
みっちゃんはそっとわたしの隣に腰かけた。長い脚の先にくっついている赤いスニーカーを眺めながら、わたしは彼の右腕に抱きつくようにして、そのまま顔をうずめた。
みっちゃんのにおい。やわらかいにおい。学ラン越しにはわからなかった、みっちゃんの優しい体温。
わたしがそうやって触れても、静かに涙を流していても、彼はただ隣に座っているだけだった。安っぽいなぐさめの言葉はかけないし、軽率に頭を撫でたり、抱きしめたりもしない。
それがよかった。どんな言葉をかけられるより、どんな触れあいをするより、みっちゃんのそういう態度に死ぬほど安心した。
「みっちゃん。ごめんね」
腕に顔をうずめたまま言った。くぐもった声が出た。
「なにが?」
とぼけたように隣の男は笑う。
「デート、できなかったし……」
「デートはおれじゃなくて奈歩の希望じゃん」
そうなのだ。ホワイトデーのお返しは、モノはなにもいらないから、時間が欲しいと言ったのだった。みっちゃんの時間、まる一日分。まあ、時間は結局こうしてもらうことになってしまったんだけど……。