「ありゃ、振られちゃったのか」


奈歩が眉を上げて笑う。おもしろがっていやがる。

振られたなんて言ってないだろ。まあ、ズバリ正解なんだけど。言わないけど。


「しょうがないよ。そういうのって縁だからね」


湯気の向こう側に見えた笑顔は、もう少女のようなそれではなくて、なんとなくぞくっとした。

奈歩はいつ、どこで、どんなふうにして、その大人びた表情を手に入れたのだろう。


「みっちゃん、わたしね、オーストリアに永住する夢はあきらめたんだ」


いつか、そんなことを本気で語っていたのを思い出す。ナントカっていう作曲家が好きだからとかバカみたいな理由をしゃべっていたな。バカみたいだけど、そういうバカなことを真剣な瞳で語る奈歩が、好きだった。

好きだった。

好きだったよ。
子どものように無邪気で危うい奈歩のことを、おれはたぶん、どうしようもなく。

それは、奈歩がおれに向けて言う「大好き」とは、まったく違う色を持つ感情だった。


「すっごい説明するのがむずかしいんだけど。でも、神様からもらった縁を大切にしたいって思ってるのがきっといちばんの要因で」

「それは、旦那との?」


少し食い気味で聞いてしまった。想像よりもずっと重たかった旦那という響きをかき消すために、熱いミルクティーを冷まさないまま口にふくむ。


「まあ、それもあるんだけどさ。友達とか、職場とか、ほかにもいろいろ……奇跡みたいに恵まれた縁がいくつもあって、いまわたしはこうして生きてるんだなって思うようになったんだよね。それを全部捨ててどこかへ行くって勇気が、もうわたしのなかに無いんだと思う」


奈歩は、大切な宝物をそっと見せてくれるみたいに、穏やかに語った。とてもきれいなほほ笑みを口元にたたえながら。