結婚おめでとう、と言ったおれに、奈歩は少し驚いたような顔をした。そして、手紙読んでくれたんだね、と目を細めた。
「ありがとう、みっちゃん」
雪のベールに包まれながらうれしそうに笑った奈歩を見て、突然あの春の夜の記憶が鮮烈に戻ってくる。
生ぬるい風。星の輝き。青い芝生。ああ、そうだ、あのとき奈歩は、おれに『世界でいちばん幸せになって』と言ったんだ。
自分のこと、不幸だとは思っていない。でも世界一の幸せ者かと聞かれたら、たぶんすぐにはうなずけない。
いま目の前で笑う奈歩は、ほんとに幸せそうに見えた。世界でいちばんだって簡単に答えてくれそうな気がした。だからこそ、そんな野暮なことは訊ねられなかった。
お互いの連絡先を知らないおれたちは、メールアドレスではなくLINEのIDを交換した。なにも変わらないように思えて、時代は着実に進んでいるのだと思う。
『かわのなほ』、社会人なんだろうから漢字で登録しておけよ。
右足だけかかとの折れたブーツで雪景色をひょこひょこ帰っていくうしろ姿があんまり滑稽で、これで帰れよと思わず1万円札を渡したが、あっさり断られてしまった。そんなんだと高い壺買わされるよと冗談みたいに言われた。そんなんだとって、どんなんだよ?
「遅れてごめんっ。いろいろバタバタしてて……」
カランカラン、なつかしい扉の音を響かせながら奈歩はあわただしくやって来た。突然の再会から2週間がたった日曜に、おれたちは月のしずくで会う約束をしたのだった。ここへ来るのは高校を卒業したぶりだ。
いま住んでいる街から生まれ育った街まで、高速を走って1時間ほど。ふだんほとんど実家には帰らないからか、金曜の夜にひょっこり顔をのぞかせたおれに、両親と妹は幽霊でも見たかのような顔をした。
そんなに仕事ばかりしているつもりはないんだけどな。社会人になってからの毎日は目まぐるしくて、仕事以外に目を向けることをついつい忘れてしまいがちだ。このままオッサンになるのはまっぴらごめんだが、それ以外の生き方をおれは知らないし、知っていてもきっと選べないんだと思う。
平凡な人生。よく言えば堅実な人生。悪く言えばきっと、つまらない人生。
いまのおれの生活を聞かせたら、奈歩はうんざりした顔でツマンナイと言いそうだよ。