すっきりとした手紙だと思った。便箋一枚だけにまとめられているなつかしいはずの文字は、こうしてよく見るとなんとなくどこかが昔とは違っているような気もする。


あの春の夜のことを思い出していた。

なぜか左半分だけが茶髪だった奈歩は、あのとき、どんな顔をしていたっけな。あの星空の下でおれはなにを言って、奈歩はなにを言っていたっけな。

ごめん、ありがとう、きっとそういうたぐいのことだったと思う。もっとほかのこともしゃべった気がするけど、なかなか思い出せねえや。

ああ、記憶は確実に薄れていくのだなと実感した。どんなに忘れたくないことでも、忘れないと思っていることでも、いつかは消えてしまうものなのかもしれない。細胞は何年かで全部が入れ替わると言うが、いまのおれはいったい何割くらいがあの日のおれと同一人物なんだろう?


飲みかけの酒に手を伸ばす。安い発泡酒は、うまいとも思わないが、なんとなく就寝前に飲むことが日課になっている。缶1本だけで酔える体質なのは安上がりでいい。翌朝までぐっすり眠れるのもいい。


――できれば幸せでいてほしい。


おれはいま、幸せなんだろうか。ひとりで発泡酒を飲んでいるおれを見て、奈歩はなんと言うだろうか。

大学での成績が認められ、奨学生として大学院へ進んだ。なかなか大きな自動車部品の製造会社へ就職したのが3年前のことだ。

仕事が楽しいかと聞かれたらわからない。それでも時々感じるやりがいを大切なことだと思える。充実は、していると思う。とりあえずあした食うものには困ってないよ。だからたぶん、不幸ではない。


折り目にそって便箋をたたみ、白い封筒のなかへ戻した。差出人の住所はどこにも書いてない。きっと、返事はいらないというサイン。勝手な奈歩らしい。

勝手な奈歩は、おれと結婚するんだと勝手に言っておいて、勝手にほかのやつと結婚する。

結婚か、気付けばもう27歳だもんな。アラサーってやつだ。

同じように奈歩もアラサーになっているんだと思うと不思議な感じがした。

彼女がどんな27歳になっているのか想像もつかない。しかし簡単に想像できるような気もした。

クセのある文字の向こう側で、きっと奈歩は、当時と変わらないまま笑っている。