夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく

「誰からも好かれてるやつも、全員から嫌われてるやつも、生きてることには変わりない。嫌われてようが好かれてようが、人は生きていける。だから、どうだっていいんだよ」


なんてシンプルな論理で彼は生きているのだろう。

思わず唇から笑いが洩れた。


「青磁の場合、人から嫌われてても、自分が自分を好きならいいって感じだもんね」

「あー?」

「青磁ってさ、自分のこと大好きでしょ」


何気なく思ったことをそのまま口にしたけれど、青磁は意外にもすぐには答えなかった。

黙って空を見上げている。

硝子玉の瞳が、綺麗な青空を映す。

気のせいだろうか、少し切なげにも見える横顔。


「……大好き、でもねえけど」

「え……?」

「気に入らねえところもあるよ」


静かな表情で独り言のように呟かれた言葉に、私はなにも返せない。

なんとなく、聞いてはいけない話のような気がした。


「そう。私も」


同じように空を見上げて、やっぱり外せないマスクにそっと触れながら呟く。


足下の校舎からチャイムの音が響いてきた。


「さあ、降りるか」


そう言って立ち上がり、「最後の一発」と水鉄砲を撃ち上げた青磁の顔は、いつもの飄々とした表情に戻っていた。










その晩、久しぶりに本を読んだ。


夏休みの前あたりから心が乱れて読めなくなっていたので、数ヵ月ぶりだ。


復習をしようかと勉強机に座ったときに、ふと読みかけだった『夜明けを待つひと』が目に入って、気がついたら手にとっていた。

掌に馴染む文庫本のサイズ感と重みが懐かしくて、ぱらぱらと開いたら、いつの間にか続きを読んでいた。


本の中の世界に没頭する感覚は久しぶりだった。

真ん中を少し過ぎたあたりで、不思議と胸を打つ台詞が出てきた。


主人公の女性は、心優しい婚約者と、忘れられない昔の恋人の間で揺れている。

悩みに悩んだ彼女はバーで酔いつぶれて、


『好きってどういうことだろう。愛ってなんだろう。分からなくなってしまった』


と呟いた。

そのとき、たまたま隣に座った不思議な妙齢の女性が歌うように言った。


『夜更けに会いたくなるひとは、ただの欲望の対象。夜明けに会いたくなるひとは、心で愛しているひとよ』


首をかしげた彼女に、女性は笑いかけて続ける。


『人肌恋しい一人の夜に思い浮かべた顔は、あなたにとって寂しさをまぎらわすだけの恋人かもしれない。でも、眠れずに夜を明かして、朝焼けに染まる美しい空を見たときに、隣で一緒にこの光景を見たいと思い浮かべた顔は、あなたが本当に大切に思っている、愛するひとなのよ』


恋さえまだ知らない私にとっては、分かるような分からないような、難しい台詞だった。

でも、その言葉はなぜか深く胸に刺さった。


夜明けに会いたくなるひとは、一緒に朝焼けを見たいと思うひとは、自分が心から愛するひと。


いつかこの言葉の意味を理解できる日がくるだろうか。

私にはまだ分からない。


「ああ、やっぱり本っていいな」


分からないながらもしみじみと呟く。


自分と全く違う生き方をしているひとが、自分と全く違う考え方で紡いだ言葉を、本を読むことで知ることができる。

私はそれに感銘を受けて読書が好きになったんだった、と久しぶりに思い出した。


寝なければいけないぎりぎりの時間まで読んで、それでもあと少し読み終わらなかったので、通学電車で読むことにして学校の鞄に入れる。


満ち足りた気持ちで眠りについて、そして綺麗な朝焼けの夢を見た。

空を見つめているとき、隣に誰か立っているような気がした。

でも、その姿は霞がかかったようにぼんやりしていて、顔はおろか、本当に誰かがいるのかさえもはっきりとは見えなかった。


私はまだ、ひとを好きになるということがよく分からない。


























「あれ? 茜、今日は青磁いないの?」


朝、席についてマフラーをたたんでいると、沙耶香に声をかけられた。


「うん、いないね」

「一緒に来なかったの? なんで?」

「……あのさ、何度も言うけど、別に毎朝待ち合わせしてるわけじゃないからね? たまたま駅で一緒になったときだけ……」

「あーはいはい、分かってるって! もう、ほんと照れ屋なんだから」

「………」


沙耶香はしたり顔で頷いているけれど、やっぱり勘違いされている。


この前、青磁が私を連れ出して二人で授業をさぼって以来、クラスのみんなの間では、完全に私たちは付き合っているということになっているらしい。


仕方がないと思う。

あんなふうに二人で教室を脱け出して、一時間戻らなかったわけだから、普通に考えてそういうことだと認識されるだろう。

私だって他人事だったらそう思う。


でも、私と青磁は相変わらず、放課後を共に過ごすだけの関係だ。

共に過ごすというより、私が青磁の隣で好きなことをしているだけ。


最近は彼が絵を描いている横で本を読むのが習慣になっている。

誰もいない別世界のような屋上で、空気のような青磁と一緒にそれぞれ好きに過ごす時間を、私はけっこう気に入っていた。


「おはよー、茜。青磁は?」


登校してきた男子にも同じように声をかけられる。


「分かんない」

「え? なに喧嘩でもした?」

「いや、だから違うって……」


そんな会話を数人と交わしてげんなりして、いつになった青磁は来るんだろうと時計を見たら、もう朝礼が始まる時間だった。


遅いな、と内心で首をかしげる。

青磁はいつも私と同じくらいの時間には登校してくるので、こんなに遅いのは珍しかった。


先生が教室に入ってきて、朝礼が始まる。

出席確認の時に先生が、


「青磁は今日、休みな」


と言った瞬間、みんなが「えーっ」と声をあげた。

青磁が欠席だなんて初めてのことだった。


「まじで? 青磁が休み?」


と男子の一人が先生に向かって言う。


「おー、休みだと」


と先生が出席簿に書き込みながら頷いた。


「なんでなんで? 風邪?」

「さあな。よし、連絡事項いくぞ」


先生は話を打ち切って来週の期末考査関係の連絡を始めた。

メモをとりながら、私はひっかかりを覚える。


青磁が休み。

その理由については、先生は話をはぐらかしたような気がした。


普通に考えて、ただの体調不良だと思うけれど、やっぱりなんとなく気になる。


朝礼が終わると同時に携帯の電源を入れて、アドレス帳を開いた。

青磁の連絡先を呼び出す。

彼の携帯はスマホではないのでラインはできないけれど、一応メールの使い方は分かると言っていたのでアドレスを聞き出しておいたのだ。


でも、彼にメールを送るのは初めてだった。

電話番号も聞いておいたけれど、もちろん電話をかけたこともなかった。


少し悩んでから、とりあえず挨拶をすることにする。


『おはよう。丹羽茜です』


変な感じだ。今さら名前を名乗るなんて。

ラインだったら気軽に文字が打てるのに、メールとなると妙に文面を迷ってしまう。


『今日休みって聞いたけど、大丈夫? 風邪ですか?』


なぜか敬語になってしまって、『風邪?』と打ち直した。

続きが思い付かなくて、とりあえずそのまま送信する。


悩みながら打っているうちに十分近く経っていて、もう一時間目が始まる時間だった。

電源を落として鞄の中に入れる。


授業が始まってからも、もしかしたらもう返信が来ているかもと思って、気になってそわそわしてしまった。


青磁の机に目を向ける。

彼は今、また窓側の席になっていた。


いつも頬杖で窓の外を見ている姿がない。

空っぽの机が妙に寂しそうに見えた。


一時間目が終わってすぐに携帯を見たけれど、返事は来ていなかった。

やっぱり具合が悪くて寝ているのかもしれない。

自然とため息が洩れた。


休み時間ごとに携帯を確認して、やっと返信が来たのは昼休みだった。


『風邪じゃない。元気。明日は行く』


なんとも簡潔なメールだった。

いかにも青磁らしくて、ふふっと笑ってしまう。


「なになにー? 嬉しそうに笑っちゃって。愛しの青磁くんから連絡?」


沙耶香がにやにやしながら声をかけてきたので、違うと返そうと思ったけれど、笑っていたのも青磁からの連絡だというのも本当なので、なにも言えなかった。


それにしても、風邪ではないなら、なんで休みなんだろう。

明日は来るということは、体調が悪いわけではないということだろうか。


気にはなったけれど、深入りするのも良くないと考えて、『なら良かったです、また明日』と返信して携帯を閉じる。

青磁からは『どーも』と帰ってきて、それでメールのやりとりを終えた。


その日は一日、びっくりするほど退屈だった。

青磁がいない教室はひどく味気なく感じたし、放課後もひとりで屋上に行く気にはなれず、久しぶりに終礼と同時に帰路についた。


いつの間にか、青磁と過ごすことが自分にとっての当たり前になっていることに気づかされて、なんだか不思議な感じがした。

でも、そのときの私はまだ、それが何を意味するのか分かっていなかった。









翌日は、早朝からしとしとと雨が降っていた。

もうすぐ十二月を迎える晩秋の雨は冷たくて、傘を持つ指先が冷えきっていた。


そろそろ手袋がいるな、と考えながら、今日は青磁が来るな、とふいに思って、自分でもその脈絡のなさに驚いた。

なんで急にそんなことを思ったんだろう。


内心で首をかしげつつ学校までの道を歩いているうちに、雨がやんだ。

まだ空は雲に覆われているので、一時的にやんだだけだろう。


ぼんやりと空を見ていると、一面灰色だと思っていた雲が、実はさまざまな色合いをしていることに気がついた。

同じ灰色でも、高いところの雲は白っぽく淡い色で、低いところは濃い。

雲の向こうにある太陽の光が当たっている部分は、ほんのりと黄色みを帯いていた。


青磁が見たらきっとすぐに筆をとるだろうな、と思いついて、自然と笑みが洩れる。

視線を落とすと、空き地の草むらから飛び出したすすきの穂先に、たくさんの雨粒がついているのを見つけた。


なんとなく足を止め、手を伸ばして軽く払ってみる。

ぱっと水滴が飛び散って、あの日の光景を思い出した。

青磁が空へ撃ち上げた水の弾丸、降り注ぐ光の滴。