笑って。僕の大好きなひと。


勝也さんの姿が、どんどんかすんで消えていく。空に映した影おくりのように、白い輪郭しか見えなくなっていく。

そして、その輪郭すらほとんど見えなくなったとき。


「環」


初めて、名前を呼ばれた。


「いい名だ。最後に呼べて、よかった」


残響のように届いた、その声。姿はもうどこにもなかった。

だけどわたしには、なぜかわかったんだ。

おじいちゃんはきっと微笑んでいた。最後に穏やかな顔をして、笑ってくれたのだと。


「ありがとう。おじいちゃん」


誰もいない草原を見つめ、わたしは静かにつぶやいた。



   ***


勝也さんの家の前に、見慣れた車が止まったのは、それから三十分ほど経ったころだった。

東京から来るのだから三時間くらいはかかるだろう。てっきりそう思っていたわたしは、大あわてで旅行バッグを背負ってノアの部屋を出た。

鍵は靴箱の上にあり、玄関を出て鍵をかけ振り返ると、車を降りるお母さんと目が合った。


「環!」

七日ぶりに見る両親の顔。お父さんは無精ひげが生えているし、お母さんは目の下にクマを作っている。

明らかにやつれたふたりに、心がずきんと痛んだ。


「環、大丈夫なの!? ケガはしてない!?」


お母さんの第一声は、それだった。充血した目でわたしに詰め寄り、必死に無事を確認する。


「う、うん……大丈夫」


そう答えた瞬間、目の前の顔から、みるみる力が抜けていった。

わたしの両肩をつかんだお母さんがうなだれるように下を向き、一呼吸ついて、そして。


「このばか!!」


鼓膜の破れるような雷を落とした。


「どれだけ心配したと思ってんの! 連絡くらいしなさい! 事件に巻きこまれたんじゃないかって、夜も眠れなかったのよ!
そもそも、バイトに行ったんじゃなかったの!? みんなに迷惑かけて、どれだけ無責任なの! そんなワガママ、社会に出たら通用しないんだからね!」


きーん、と耳鳴りがした。一気に怒鳴って酸欠になったお母さんが、はあはあと激しく息をしている。

お母さんの言葉は、ぐうの根も出ないほどの正論だった。この町に逃げてくる前のわたしが、「きっとお母さんはこう言うだろう」と想像したのと、ほぼ同じ。

ずっと、これが苦手だったはずなのに。お説教が大嫌いだったはずなのに。

自分でも不思議なんだ。叱られることが、今はこんなにも嬉しくて。


「ふふ……」

「な、なにを笑ってんの」


つい肩を揺らしたわたしに、お母さんが怪訝そうな顔をする。


「笑うとこじゃないでしょ、環!」

「ごめんなさい」


わたしは嬉し涙のにじむ目尻をぬぐった。そして、すうっと息を吸いこむと、両親の顔を交互に見た。


「お父さん、お母さん、本当にごめんなさい」


こうして向き合うのは初めてで、にわかに鼓動が速くなる。真剣な様子が伝わったのか、両親の顔にも緊張が走った。


「わたしね、言いたかったことがあるの……」


手のひらに汗がにじみ、口の中が乾いてくる。がんばれ、がんばれ、と自分を奮い立たせる。

この町でわたしは、みんなからたくさんのことを教わった。たくさん助けてもらった。

ここからは、自分ひとりだ――。


「本当はわたし、昔みたいに家族みんなで仲良くしたい。お父さんのことも、お母さんのことも、やっぱりわたしは大切だから……」


たとえ恥ずかしくても、素直な気持ちをぶつける勇気。これは、トモくんに教えてもらったこと。


「今までのわたしは、お父さんたちに背を向けてたと思う。でもそれは、嫌いとかどうでもいいとかじゃなくて、どうすればいいのかわからなかったから。本当は向き合いたいのに、怖くて、すねてたの」


相手や環境を責める前に、自分の気持ちは何なのか。向き合う大切さを教えてくれたのは、実里さんと旦那さんだ。


「でもやっぱり、もうあんなのは嫌だよ。笑い合える家族がいい。くだらないテレビで笑ったり、お父さんの寒いジョークに突っこんだり……そういう家に、もう一度わたしは帰りたい」


どんなに絡まってしまっても、親子の糸はつながっている。それを信じさせてくれたのは、おじいちゃんだった。

そして――。

「あのね、わたし……お父さんも、お母さんも、大好きだよ」


わたしの世界は愛しいものであふれている。

そう気づかせてくれたのは、ノア、君だったんだ。


木の葉がどこからか舞ってきて、わたしの肩にそっと降りた。真上にのぼった冬の太陽が、お父さんとお母さんの顔にやわらかい影を落としている。


「……じゃない……」


ふいに、お母さんが低く震える声で何かを言った。聞き取れず、「え?」と聞き返す。


「お母さんも、環のことが好きよ……っ、娘なんだから当たり前じゃない!」


涙を目にいっぱいためて、お母さんはそう言った。普段は気丈なお母さんの、初めて見るその表情に胸がぐっと詰まった。


「お父さんもだぞ。環のこと、大好きだ」


ああ、お父さんまで泣いちゃった。

そうだ、わたしのお父さんはとても涙もろくて、ドラマとか見ても真っ先に泣いてしまう、心やさしい人だった。

あんなにも苦手で逃げたかったのに。

今、目の前にいる両親は、わたしと同じひとりの人間だ。同じように悩んだり、立ち止まったりする、愛しい人たちだ。

そんな当たり前のことを、わたしは今、初めて心から感じられた。


「ごめんな、環……。子どもの方から言われて、やっと気づくなんてな。本当は僕たち親が、伝えなきゃいけない言葉だったのに」

「ううん……ううん、お父さん」


鼻水が出てきてしかたない。泣くつもりなんてなかったのに、ふたりの涙が伝染したんだ。

だって、わたしはふたりの子どもだから。


「環……お母さんね、自分の親とうまくいかなかった後悔を、娘のあなたにぶつけていたんだと思う。本当は、環がこうして元気でいてくれるだけで、幸せだったのにね」


ごめん。そうつぶやいたお母さんのまつ毛が揺れた。


「お母さん……」

「でもね。やっぱりわたしは環の親だから。教えなくちゃいけないことは、たとえ嫌がられても、首根っこつかんででも、あなたに教えていく。その気持ちは、間違いなんかじゃないと思ってるのよ」

「うん……っ、ありがとう」


今ならわかる。きっとわたしたち、お互いにねじれた世界を作っていたね。

大切な相手だからこそ、よけい頑なになっていたんだ。

ふと、お父さんとお母さんが、わたしを間にはさんだ距離で遠慮がちに目を合わせた。それからふたりとも眉を下げて、ほんの少し微笑んだ。

こんな両親を見るのは、いつぶりだろう。


わたしたち、今からやり直せるのかな。

時間をかけてもつれた糸は、簡単にはほどけないだろうけど。きっとまた、ぶつかってしまうだろうけれど。

もし、そうなってしまったときは、何度でも自分の心にたずねよう。


“わたしの本当の気持ちは何?”


答えはきっと、いつも同じはず。


“この家族のことが大好きだ――”



「さあ、帰ろう」


お父さんがわたしの背中を、そっと車の方へと押す。お母さんがドアを開けてくれて、後部座席にわたしとお母さんは並んで座った。


「今夜は環の誕生日パーティーだな」


その言葉を合図に、エンジンをかけるお父さん。かすかな振動が体に伝わり、車がゆっくりと走り出す。

わたしはシートからお尻を浮かせ、後ろを振り返った。リアガラスの向こうで、三角屋根の家が徐々に小さくなっていった。

ばいばい。ありがとう。

わたしを乗せた車は、日常へと帰っていく。



たかが七日間――されど七日間。

わたしに起きた、やさしい奇跡。


世界は思い通りには変わらない。

だけどきっと、自分自身は変わっていけるんだ。






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