『環ー。いいかげん、出てきなさいよ』
それは十歳のときの記憶だ。部屋の外の廊下から、お母さんがあきれた口調で呼びかけてくる。
勉強机にもたれて体育座りしていたわたしは、膝を抱く腕にぎゅっと力をこめた。
『やだ! 行かない!』
『じゃあ、もうバイバイでいいのね?』
『えっ……』
『環が出て来ないなら、このままノアを引き取ってもらうしかないでしょう』
『だめ!』
わたしは勢いよく立ち上がり、籠城していた自室から飛び出した。
涙と鼻水を垂れ流しのわたしに、お母さんがハンカチを手渡し、「ほら」と言って玄関の方へ背中を押す。
そこにはやさしそうな夫婦が立っていて、犬のノアが傍らでおすわりをしていた。
『サユリ、ごめんね。わざわざ迎えに来てもらったのに、おまたせしてしまって』
お母さんが申し訳なさそうに言う。
『ううん、いいのよ。娘さんが寂しがるのも当然だもの』
夫婦の女性がわたしを見て微笑んだ。その視線がいたたまれず、あわてて目をそらす。