顔を上げると一台のバスが止まっていて、運転手さんが窺うようにこちらを見ていた。
わたしはバスに表示された行先に目をやり、あっ、と小さく声がもれる。その地名に、かすかに覚えがあったから。
――『子どもの頃に一度だけ、家族旅行で行ったことがあるんだ』
そう、昔、お父さんの車に乗って行った町。
恋の痛みも、友達への嫉妬も、家族の不協和音も知らない……幸せだった頃の思い出の場所。
記憶が映し出した映像の中で、あどけないわたしの笑い声がする。
今よりずっと若い両親の微笑み、そして――。
わたしはカラカラに乾いた喉から、小さな声を絞り出した。
「……乗り、ます」
あの町に行きたい。唐突にそう思ったのは、なぜだろう。
重い荷物と、不安定な気持ちを抱え、わたしはバスに乗りこんでいく。
たかが七日間――されど七日間。
世界が変わるなんて期待はしていなかったけど、ただ、ほんの少しの間だけ、わたしは逃げ出したかったんだ。