ここは東京の郊外でまずまずの都会だけど、学校の近くはこんな感じで自然が多く残っていた。人の手が入っていない場所は人通りも少なく、ひっそりしている。さっきから人間も車も、猫一匹見かけない。生きているものといえば、電線の上で鳩が羽根でお腹をかいているだけ。まだ辺りは十分明るいけれど不気味なぐらいの静けさに背中を押され、足が速くなる。一年半も通い続けた通学路のはずなのに、未だにこの道だけは慣れない。

 どさっ、と雑木林の中で大きなものが倒れる音がして、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような気がした。おそるおそる振り返って、足が止まる。

 河野潤平くん。

 昨日、文乃のカバンを無理やり持たされて歩いていた彼の体が、雑木林の黒っぽい土の上に転がってた。のろのろと立ち上がり、制服のお腹を手ではらって、また歩き出す。右手にスーパーのものらしいビニール袋を握っていた。転んだ衝撃のせいか袋の表面が大きく破れて、落ち葉や土が貼り付いている。

 木の根に躓きそうになったり枝に頭をぶつけたりしながら、大きな体が雑木林の奥に進んでいく。黒い人影が完全に消えたのを見届けてから、意を決してアスファルトと雑木林とを隔てているガードレールを跨いだ。太ももの裏に金属のひんやりした感触が伝わった。

 河野くんはきっと、文乃に会いに行く。河野くんの行く先に文乃がいる。文乃の秘密がある。なぜかはっきりした確信があって、ずんずん雑木林の奥に進んだ。どんよりした目に封じられた、文乃の心の奥へ奥へと入っていくように。髪の毛に蜘蛛の巣が絡まるのもソックスがくっつき虫だらけになるのも、文乃の目つきと同じぐらい湿気を含んだ重たい空気も、気にならなかった。

 やがて噂のラブホテルが現れる。とっくに廃業になって建物だけ取り壊されずに残ってる、お化け屋敷兼ヤンキーのたまり場。『ホテル パステル』って看板も元は真っ白かったはずの壁も雨風に晒されて灰色に汚れて、汚かったり下品だったりする言葉のオンパレードだ。

あちこち窓が割られ、玄関を飾るアーチは誰かがひねりつぶしたようにひしゃげている。ゴミがとにかく多い。錆びついた自転車、タバコの吸い殻、空き缶、半裸の女の子が表紙の雑誌、テープがはみ出したビデオテープ、パンクしたタイヤ……足の裏にぐんにゃりした感触があって足を上げたら、

時々増岡くんたちが昼休みに「水風船」を作って遊んでるピンク色のゴム製品が正しい使われ方をした末捨てられていて、破けた先端から白っぽい中身がこぼれていた。悲鳴を上げそうになる口を慌てて押さえる。

 もう少しだ。もう少しで、文乃に会える。文乃と河野くんの秘密がわかる。足音を立てないように、息さえなるべくしないで、ゆっくりゆっくり歩いた。

 中は外よりももっとすごかった。ドラマでしか見たことがない部屋を選ぶパネルがヤンキーたちの仕業なのかぐちゃぐちゃに割られ、壁紙もあちこち剥がされてえげつない言葉の落書きが視界を埋め尽くしてる。ゴミは相変わらず多い。タバコくさいような、饐えたような、なんともいえない臭いが顔を引きつらせる。割れた窓の間から差し込む日の光が、空中を漂う埃を浮かび上がらせていた。その光景がなぜだかとてもむなしく見えた。

 声を聞いた。とがった女の子の声と、もごもごした男の子の声。一階の、一番奥の部屋から聞こえてくる。落書きされたドアは侵入者を予見せず四分の一ぐらい開いていた。

 慎重に慎重に、一歩ずつ進む。一歩ごとに声はよりはっきりと輪郭を持つ。自分の心臓の音がバクバクうるさくて、耳の働きを邪魔した。

「あんたいつも遅いんだよ。マジ、スーパー行くのに何分かかってんのさ」
「ご、ごめんなさい」
「袋も破れちゃってるし、頼んだポテチは違うのだし」
「ごめんなさい……」
「もういいごめんは聞き飽きた。いつものやって。まずは床から」
「は、はい」