「私は、ミウが傍にいてくれるだけで心強いよ!」

「え……」

「ミウ、大好きっ!今日は、このあと " 失恋やけ食い " に付き合ってよね!」



その言葉に、音もなく涙の雫が頬を伝って零れ落ちた。

大きく手を振り、再び駆け出したユリの背中に、何度も何度も心の中で『頑張れ!』とエールを送る。



「……大丈夫だよ」

「え……?」

「あの子 ─── 笑ってたから」

「笑って……?」

「今みたいに、晴れた笑顔で笑ってた」



不意に、髪に触れた温もり。

弾かれたように顔を上げれば、そこには涙を流す私を、優しく見下ろす雨先輩の瞳がある。

 
 


「 " ごめん、俺、大切な彼女がいるから " ─── そう言って、彼にフラれたあと。彼女は、彼に満面の笑みを浮かべて言うんだ」



真っ黒な、その瞳に映るのは、私と黄金色に染まった世界だけ。

思わずその美しさに目を奪われると、まるで時間が止まったような錯覚に陥った。



「 " ありがとう、私は、彼女を一途に想うあなたが好きでした " 」



ハラハラと落ちる葉は、止まることなく時間だけを刻んでいく。

あとどれくらい、どのくらい、私はこの綺麗な世界にいられるだろう。

この世界を見ていられるだろう。



「彼女は、笑顔で美雨のところに戻ってくるよ」



優しい、優しい声。

このまま時間が止まってくれたらいいのに、なんて。

そんなことを思ったのは、きっと、この瞬間(とき)が初めてだった。

 








 木曜日の霧雨
 ──────────*
 
 
 




「おい、ミウ!お前、昨日、俺のこと無視しただろ」



朝、昇降口で声を掛けられて振り向けば、幼馴染の " カズくん " が顔に不機嫌を貼り付けて私を見ていた。

カズくんは、私の一つ年上の高校三年生。

学年は違えど、幼馴染というだけあって顔を合わせれば軽口を叩き合うほどには仲が良い。



「昨日ちょっと急いでたから、それどころじゃなかったの」



悪びれもせず言えば、「お前って、本当に失礼な奴だよな」と、眉根を寄せて睨まれる。

それに「うるさいなぁ」なんて返事を返して足を止め、カズくんが追いつくのを待っていると、隣に並ぶついでに肘で横腹を小突かれた。



「イタッ。やめてよ、昨日ケーキ食べ過ぎて、絶賛胃もたれ中なんだから」

「お前、ケーキ屋に行くために急いでて、俺のこと無視したのかよ」

「うーん。違うけど、違わないかも」



曖昧に返事を返せば、頭一つ高い位置から見下される。同時に、柔らかに細められた目と目が合った。

昔からカズくんとは、こんな風にくだらない言い争いをよくしたなぁ……なんて。そんなことを思えば、胸には懐かしさが流れ込んできた。

 
 


「どっちにしろ、お前は俺よりケーキだろ。お前って、ホント昔から可愛げのない奴だよな」



真っ白な歯を見せて、笑いながらカズくんが言う。

一つ年は違えど、小さい頃からカズくんとは友達のように過ごしてきた。

カズくんからは、いつも、太陽の香りがする。

こんがりと焼けた肌、元野球部らしく短く切り揃えられた黒髪、努力の染み付いた身体と─── 希望に満ち溢れた未来。

小さい頃から野球が好きだったカズくんには、ずっと大切にしていた夢があった。


『俺、将来は学校の先生になって、自分の生徒に野球を教えるんだ!』


同世代の男の子たちが『野球選手になる』『サッカー選手になる』と壮大な夢を口にする中で、やけに現実的で子供らしからぬ夢を抱いていたカズくん。

はじめて聞いた時は、『もっと楽しい夢にしたらいいのに』なんて、生意気なことを思ったのを覚えてる。

けれど、月日が経つに連れ、周りが現実という壁に突き当り挫折していく中で、カズくんだけは一途に自分の夢を守り続けてきたのだ。

今年の夏に野球部は引退してしまったけれど、最後の夏にはエースピッチャーとしてマウンドに立ち、部長としても野球部の皆を引っ張っていた。

部活だけでなく、学業にも励んでいたカズくんは、テストだっていつも上位常連者。ついでに、学級委員長なんかも務めている絵に描いたような優等生。

昔から、誰もが認める努力家なカズくん。

私とは到底似ても似つかない……とても眩しい、幼馴染だ。

 
 


「……どうせ私は、昔から可愛くないですよ」



つい唇を尖らせながら呟けば、カズくんは今度こそ堪えかねたように噴き出した。



「別に可愛くないとは言ってないだろ、可愛げない奴だって言ったんだよ俺は」

「似たようなもんでしょ」

「まぁ、似たようなもんだけど、似てないような気もしないでもない」



完全にからかい口調になったカズくんを前に、先ほどのお返しの意味も込めてカズくんの横腹を肘で小突く。

その拍子に、カズくんの背負ったリュックにぶら下がっている『合格祈願』と書かれたお守りが、視界の端で小さく揺れた。

ああ、そうだ。高校三年生であるカズくんは受験生で、きっと今は勉強で忙しい時期だろう。

前に大学の話を聞いた時には、頭の痛くなるような某有名大学を受験すると言っていたから尚更だ。

 
 


「……カズくん、受験勉強、忙しい?」

「なんだよ、急に」

「いや……そういえば、カズくんって受験生だったなぁと思って」



そう言えば、「今更かよ」と笑われる。

カズくんは努力家だけど、昔から、その努力を人に見せない人だった。

人知れずコツコツと努力を重ねて結果を出すという、皆のお手本みたいな人なのだ。

そのくせ、努力の成果を鼻に掛けない謙虚さも持ち合わせているのだから、本当に非の打ち所がない。



「まぁ、受験勉強は、ぼちぼちかな。周りも頑張ってるし、皆とあんまり変わらないよ」

「……言うと思った」



ぽつりと零せば、カズくんは「じゃあ聞くなよ」と、柔らかに笑った。

本当に、どこまでも真っ直ぐな人。

希望に満ち溢れた未来に─── 明るい未来に向かって、真っ直ぐに歩んでいる人だ。

 
 


「あ、そういえばさ」



世間話をしながら階段を上り、二年生の教室のある階と、三年生の教室のある上の階とで別れる踊り場に差し掛かったところで、カズくんが唐突に足を止めた。

つられて足を止めれば、開かれた窓から冷たい風が迷い込んできて、私の髪を後ろへ揺らす。



「お前、進路表、まだ出してないんだって?」

「……え?」

「月曜日の昼休みに、お前が職員室で説教されてたって、野球部の奴が言ってたからさ」



突然の言葉に、思わず唇を引き結んだ。冷たい頬を髪が撫でて、慌てて片手でそれを押さえる。

……まさか、このタイミングでその話が出てくるとは思わなくて。というより、カズくんに知られているとは思わなかったから。



「お前、昔は将来の夢、俺に偉そうに言ってたじゃん。それ、もう、やめちゃったわけ?」



至極、当たり前のことのように尋ねられて思わず逃げるように視線を足元へと落としてしまった。

将来の夢。

確かに、そんな話をしていた頃もあったけど。でも、それは─── 私がまだ現実というものを知らない、子供だった頃の話だ。

 
 


『カズくん、私ね!将来は─── 』


遠い日の自分が、満面の笑みを浮かべながら叫んでる。

まだ見ぬ未来を思い浮かべて、楽しそうに笑ってる。



「ミウ?」

「─── っ、」



だけど私は、急いでそれを頭の中で打ち消すと、声を砕くように奥歯を強く噛み締めた。

……ダメだよ、もうやめようって決めたのに。

締め付けられたように痛む喉。

私も、子供の頃はカズくんや、カズくんの同級生の男の子たちと同じように、自分なりの夢を抱いていた。

子どもの頃は、夢は叶って当たり前のものだと思っていたし、" いつか自分の夢は叶う " ということを疑ってすらいなかった。

だけど、ある分岐点で、夢を現実のものにするのは容易なことではないと気付いてしまう。

夢を叶える為には、必要なものがたくさんある。

やらなきゃいけないことが、山ほどある。

乗り越えていかなきゃいけないことばかりだ。

結局、私もカズくんの同級生たちと同じ。

現実という壁に突き当たり─── 握り締めていた夢を、手放したのだ。