「俺は、何度も何度も、もう見たくない、もう辞めたいって父に言ったけど…… " お前が見るのをやめたら、俺たちは母さんのように死ぬしかないんだ " って、その度に、泣きながら、言われ続けた」



『未来が見えても、良いことなんて、ひとつもない』─── 屋上で、雨先輩が言った言葉の本当の意味を知る。

あの時、雨先輩はどんな気持ちで、その言葉を口にしたのだろう。

見たくないものばかり見て、本当に見たいはずのものは、何一つ見えなくて。

雨先輩は、ずっと暗闇の中を歩いてたんだ。

暗闇の中を、たった一人で。



「父に力を利用されている間、何度も何度も、もしかしたら、父が改心してくれるかもしれない。昔のように戻れるかもしれないって思ったよ」



期待して、裏切られて。それでも期待を捨てられずに、歩き続けてきた。



「だけど結局、その期待が報われることはなかった。そうやって一人になった俺を、母方のばあちゃんが家に来いって呼んでくれて今がある。それが、今年の夏の話。でも……そのあとすぐに、ばあちゃんも身体を悪くして入院したんだ」



やっと見えた光も、雨先輩をまた暗闇へと引き戻す。



「俺が、ばあちゃんの唯一の家族だからって病院に呼ばれて、お医者さんから色々と説明されて。それから……ああ、また結局、期待は裏切られるんだって思ったら、もう何もかもがどうでもよくなった」



どんなに手を伸ばしても、届かない光。

何もかもが嫌になって、ついに全てを諦めた頃。雨先輩は、あの日、屋上で───

 
 


「だけど、死ぬ前にもう一度だけ、信じてみたくなった」

「…………っ、」

「もう一度だけ、手を伸ばしてみたくなったんだ。俺と同じ、" 未来を失った " 女の子に」



気が付けば、涙の雫が頬を伝って零れ落ちていた。

あの日、雨先輩が屋上にいた理由。

あれから毎日、雨先輩が屋上で空を眺めていた理由。

それはきっと、いつまた裏切られてもいい準備をしていたんだろう。

自分の未来を見ることを、諦める準備をしていたんだ。

今度こそ、一人になったら。

次に一人になったら、雨先輩は、あの場所で───



「……きみ、」

「え……」

「きみの望み通り、今からきみの未来を見てあげる。ただし、その代わりに、一つ約束してほしい」



と、不意に。私から隣に視線を移した雨先輩は、今の今まで黙りこくっていたタクちゃんへと言葉を投げた。

突然のことに、大袈裟に肩を揺らして固まったタクちゃん。

そのまま、ゴクリと喉を鳴らすと、瞳を揺らして雨先輩を見つめた。

 
 


「や、約束してほしいことって……?」

「今から俺が見たきみの未来が、例えどんな未来でも、最後まで精一杯生きること」

「え……」

「頑張れなんて言わない。ただ、最後の最後を迎えるその日まで、生きることを諦めないでほしい」

「─── 、」



そこまで言うと、雨先輩は真っ直ぐにタクちゃんの瞳を見つめた。

深く、深く。意識が、蒼い海の底に沈んだ瞬間。

そのまま世界が何もない、尊い蒼に染まったと思ったら、突然弾けるように意識が浮上して、私は慌ててタクちゃんから雨先輩へと視線を戻した。



「雨、先輩……?」

「……っ、」



けれど、視線を戻した先。そこにいる雨先輩の綺麗な瞳から一筋の涙が零れ落ち、リノリウムの床に音もなく吸い込まれた。

今、雨先輩はタクちゃんの未来を見たんだろう。

タクちゃんの、これから先の未来を、雨先輩は……



「に、兄ちゃん? 俺……」

「……大丈夫」

「え?」

「もう、すぐそこまで来てるよ」

「……え、」

「─── きみの、未来」



そう、雨先輩が言葉にした瞬間。

突然、目の前のエレベーターの扉が開いて、中から一人の女の人が飛び出してきた。

 
 


「ああっ!! タクちゃん、こんなところにいた!!」

「わ……っ、サ、サカキさん!?」

「多分、トキさんのところじゃないかなと思ったのよ! もう本当に探したんだから!!」

「……お母さん?」



ぽつり、と。私が零した言葉に目を見開いたのは雨先輩で、タクちゃんは呆気にとられた表情で、ナース服に身を包んだ私のお母さんを見つめていた。

久しぶりに見る、看護師としてのお母さん。

そんなお母さんは私には目もくれず、興奮しきった様子でタクちゃんの手を強く掴んだ。



「見つかったの! ドナーが!!」

「え……」

「タクちゃんのドナーが見つかったのよ!! それで今、タクちゃんがどこにいるのかって、タクちゃんのご両親と私とで探し回っていて……」



その言葉を最後まで聞くより先に、零れ落ちた涙の雫。

そっと、隣を見てみれば、タクちゃんの目からも大粒の涙が零れ落ちていた。



「……雨先輩」

「……うん?」



……雨先輩。

雨先輩は未来が見えても良いことなんて、ひとつもないと、そう言っていたけれど。



「……良いこと、ひとつ、ありましたね」



そう言って泣きながら笑えば、雨先輩も「そうだな」と、嬉しそうに笑った。

小さな窓から見える空。

そこから差し込む僅かな光は、相変わらず私達の足元を照らしていた。

 








 土曜日の雨花
 ──────────*
 
 
  




「もう、驚いちゃった。まさか、ミウがいるなんて思わなかったから」


タクちゃんと別れたあと、トキさんの病室に戻ってきた私は今更になって、ここがお母さんの働く病棟であることに気が付いた。

トキさんの状態を診ながら、お母さんが柔らかに笑って私と雨先輩を見る。

なんとなく、居た堪れなくなった私は視線を下に落としたまま小さくなってしまった。

だってまさか、こんな風にお母さんと遭遇するとは思わなかったから。

そりゃあ、今私がいる場所はお母さんの職場で、お母さんと会うことだって有り得るに決まっているけど、あまりに突然すぎて心の準備ができていなかったんだ。

……雨先輩とのことも、私がここにいる理由も、どう説明したらいいのかわからない。


「ミウちゃんは、うちの孫のお友達なんですって。今日は、孫が私の話し相手にって連れてきてくれたのよ」

「え……」


だけど、そんな私の心情を察したように助け舟を出してくれたのはトキさんだった。

トキさんの言葉に、お母さんが腕時計を確認していた顔を上げて目を丸くする。


「あら、そうなの? ミウ、そんなこと全然教えてくれないから」

「最近仲良くなったみたいでね、ミウちゃんもお母さんに話しそびれちゃったんじゃないかしら」

「確かに、ここのところ中々ゆっくり話す時間が取れなかったので……。だけど、そうだとしてもミウったら、来るなら来るで、朝、一言言ってくれたら良かったのに」

「きっと、お母さんの仕事の邪魔をしたくなかったのよ。でもまさか、ソウちゃんが連れてきた子がサカキさんの娘さんだなんて、こんな素敵な偶然、なかなか無いわよねぇ」

 
 


そう言うと、トキさんは私を見て柔らかに微笑んだ。

なんとなく気恥ずかしくなって、口を噤んだ私は逃げるように視線を隣へと移す。

すると私と同様、行き場を無くしたように口を噤んで立ち竦んでいる雨先輩に辿り着き、思わずそのまま視線を止めてしまった。

お母さんにエレベーター前で声を掛けられてから、この病室に戻ってきて今の今まで、雨先輩は一度も口を開いていない。

それどころか、ぼんやりとしたまま、心ここに非ずといった様子だ。


「ねぇ、ミウ。もしもまだトキさんのところにいるようなら、このあと、お昼ご飯一緒に食べない? お母さん、あと10分でお昼休憩だから」

「え……いいの?」

「うん。久しぶりに、一階の食堂で一緒にお昼食べよ。……ソウくんも、もし良かったら一緒に」


その問い掛けに、ようやくハッとしたように目を瞬かせた雨先輩が、驚いたようにお母さんを見た。


「せっかくなら、普段のミウの学校での様子とか、色々お話し聞かせてくれると嬉しいな」


突然の誘いに困惑したように眉根を寄せた雨先輩。

ほんの少し開いた窓から滑り込んできた風が、雨先輩の髪を優しく揺らすとムスクの香りが宙を舞った。


「でも……、」

「せっかくなら、ご一緒してきたら? 私との話は、そのあとにゆっくりしましょう」


トキさんのその言葉に、一瞬、何かを言いたそうに唇を動かした雨先輩が口を噤む。

そのまま結局、雨先輩は有無を言わさぬトキさんの様子に、観念したように視線を下に落としてから「……はい」と小さく頷いた。

そんな二人のやり取りを視線だけで追ったあと、私は久しぶりに見るお母さんの看護師姿を食い入るように見つめて、ほんの少しだけ胸を躍らせた。

 
 


 * * *



「ミウは、本当にオムライスが好きねぇ」


一般的なファミレスほどの広さの食堂は、決してオシャレとは言えないけれど、いかにも病院内の食堂らしい、清潔感と簡素感を漂わせていた。

小さい頃、おじいちゃんのお見舞いのために病院を訪れた時に、何度か食堂を利用したことがある。

あの頃は子供心にメニューに物足りなさを感じた記憶があるけれど、今思えば病院内の食堂にファミレス並みのメニューの充実を求めるほうがどうかしていた。

それでもその中で、私は毎回決まってオムライスを頼んで食べていて、一緒に来ていたおばあちゃんを呆れさせたんだ。


「だって、オムライスって美味しいんだもん」

「はいはい、ホント、昔から変わらないんだから」


ぐるりと席を見渡せば、お見舞いに来たらしい人たち、お母さんと同じようにお昼休憩中の看護師さんやお医者さんたち、従業員さんたちが、それぞれに食事をとっていた。

食券を買い、トレーに乗った料理を受け取ると、私たちは偶然空いていた窓際にある四人掛けの席へと腰を下ろす。

真横にある大きな窓からは敷地内の庭が見えて、黄金色に輝く銀杏の葉がキラキラと陽の光を浴びながら揺れていた。

 
 


「─── それで、二人は付き合ってるの?」

「……っ、け、ケホッ、ゴホッ!」


正面にお母さんが座り、私の隣に雨先輩が座るという図式で、今まさに「いただきます」と、手を合わせようとしたところ。

そこへ唐突にそんなことを尋ねられ、私は水の入ったグラスを手に、盛大に咽てしまった。


「やだ、ミウったら汚いわね」

「お、お母さんが急に変なこと言うから!!」


慌ててお手拭きの袋を開けて口元を押さえれば、お母さんは慣れた手つきで紙ナプキンを取り水の零れたテーブルを拭いていく。


「だって、トキさんが二人は最近仲良くなったらしいって言うんだもの」

「な、なんでそれだけで、付き合ってるってことになるの!?」

「えぇー、高校生の男女が仲良く相手の家族のお見舞いに来てたら、そうなのかなって思うじゃない。だって、自分にとって特別じゃない子を大切な家族に、わざわざ会わせようなんて思わないわよ。ねぇ、ソウくん?」


その問いに、ギクリと肩を揺らして隣を見た。

そうすれば私と同じくオムライスを頼んだ雨先輩が、スプーンを持ったまま顔を赤くしながら固まっていて、私は今度こそ逃げ場を失った。