「あ、あの……雨先輩、」
「……逃げようと思った。この世界から、現実から、未来から」
「……え?」
「だから、似てるな、と思ったんだ。あの日……この場所で、独りでこの景色を見つめている美雨のこと」
唐突に、そんなことを言った雨先輩は、鉄の手摺りに手を置くと視界いっぱいに拡がったグラウンドを眺めた。
どこか、遠くを見ている目。
何かを探しているようで、それでいて、何もかもを諦めたような、そんな目だ。
「独りで空を眺めていた美雨が、俺自身を見ているようで……声を掛けずにはいられなかった」
ねぇ、雨先輩。『逃げようと思った』って、どういうことですか?
頭を過った疑問を口にすることすら怖くて、私は口を噤んで押し黙った。
だって、言葉にしたら、既に曖昧な存在の雨先輩が、私の知らないどこかへと行ってしまうような気がして。
雨先輩が、今すぐにでも消えてしまうような気がして……私は。
「え……?」
どうしようもなく怖くなった私は、雨先輩の手に自分の手を重ねて、そっとその手を優しく握った。
「……美雨?」
「あ、ありがとうございます」
「え?」
「ここに、いてくれて。私に、声を掛けてくれて」
突然の私の行動に、雨先輩が驚いたように私を見る。
『ありがとうございます』なんて、可笑しいかもしれない。
だって、あの時、雨先輩に声を掛けられなければ、私はこんな風に悩むこともなかった。
それでも、雨先輩に声を掛けられてから見えた世界。気付いたことが、たくさんあるというのも事実だから。
当たり前が当たり前じゃなかったこと。死ぬことに対する恐怖。過去に置き忘れた思い出。自分の弱さ、やっぱり死にたくないと思ったこと。
たった数日の間に、見えた世界がたくさんあった。
どれも大切で、とても綺麗な私の宝物なのだと気付かされたんだ。
「前にも言いましたけど。雨先輩が未来を教えてくれたから、私は残された毎日を、悔いのないように必死に生きられるかもしれないんです」
「…………」
「それに、雨先輩のお陰で、私はまだ希望を持ててます。雨先輩がいるから私は独りじゃないと思える。何かできることがあるかもしれないって思える。それに─── 」
強く。強く、手を握った。
冷えきっていた手はとても冷たいはずなのに、どうしてか、とても、とても温かい。
独りじゃない。最後の最後まで、雨先輩がいてくれる。
雨先輩は、この手を離さないでいてくれる。
確証なんてない。だけどきっと、絶対だとそう思う。
たったそれだけの事実が何より私の心を強くして、支えてくれるのだと、私は今この瞬間に、気が付いた。
「最後まで、私を見届けてください。途中で勝手にいなくなったら、死んでから呪いますよ」
言いながら笑えば、雨先輩が驚いた顔をしてから破顔した。
「呪われるのは、嫌だな」
太陽より眩しい笑顔。はじめて見る無邪気な笑顔に、胸の奥が熱くなる。
あと、3日。
私はきっと、未来を探して精一杯走ってみせる。
金曜日の雨構
──────────*
「放課後、ついてきてほしいところがあるんだ」
雨先輩に言われて向かった場所は、私にとっても縁(ゆかり)がある場所だった。
【医療センター】そう書かれた門を前に、一瞬躊躇して足を止める。
「美雨? どうしたの?」
目の前にそびえる病院は、私のお母さんが勤めている病院だ。
この辺りでは一番大きな総合病院で、看護師であるお母さんが毎日たくさんの患者さんを前にして、汗を流している現場。
どうして、寄りにもよって、ここに……
「……すみません、なんでもないです。行きましょう」
戸惑いを精一杯押し込めて笑顔を見せれば、一瞬だけ不思議そうに首を傾げた雨先輩。
だけど、それ以上は何も言わずに、病院の敷地内へと歩を進めた。
自動ドアを潜り、病院の中へと足を踏み入れれば独特の匂いが鼻につく。
視界に映るのは清潔感のある佇まい、車椅子に乗っている患者さんや数名の看護師さん、お見舞いに来たらしい人たち。
その人たちと擦れ違いながらエレベーターに乗り、4階のボタンを押した雨先輩の背中を、私はただただ無言で見つめていた。
一体、雨先輩はどこに向かっているんだろう。
『ついてきて』と言われたからついてきたけれど、理由を聞いても『それはついてから話す』と言ったきりだし、ここに来た目的もわからない。
……ううん、違う。目的はきっと。
多分だけど、雨先輩が向かっている先に私が言った『未来を変えるためのヒント』があるんだろう。
私の願いを叶えるために、雨先輩は私をここに連れてきた。
昼間の流れからそう考えるのは多分普通のことで、それ以外の何かがここにあるとは、今の私は到底思えない。
……もしもその予想が外れたら、その時は、さすがにちょっと、怒ってもいいとさえ思ってしまう。
「美雨? 降りないの?」
「……えっ、あ……すみません!!」
ぼんやりと、そんなことを考えていれば、いつの間にか目的の階に辿り着いていたエレベーター。
一足先に降りていた雨先輩に声を掛けられて、私は慌てて箱の中から飛び出した。
「うわ……っ!?」
「わ……っ!!」
─── と。その拍子に、エレベーターの扉の向こうに立っていた人とぶつかって、身体が大きくよろめいた。
バランスを崩した身体はそのまま後ろへ倒れて尻餅をつく。
だけどそれは相手も同じだったようで、「イタタ……」と声を零した私を戒めるように、酷く不満気な声が投げられた。
「痛いなぁ……急に飛び出してくるなよ」
「す、すみません!!」
謝った拍子に指先にぶつかったのは、真っ黒な携帯電話だ。
咄嗟にそれを拾い上げ、病衣を着ているその人と交互に見れば、引き換えに大きな溜め息が落とされた。
「……アンタ、いくつだよ。病院内のエレベーターから急に飛び出してくるなんて、今時の小学生でもそんな非常識なこと、やらないよ?」
幼さを残した声。驚いてから目を見開けば、私よりも頭一つ分、小さな男の子と目が合った。
「ぶつかったのが俺じゃなくて、じいちゃんや、ばあちゃんだったら、大怪我に繋がってたかもしれないんだぞ」
そう言う相手が、まさか自分よりも小さな子だとは思わなくて固まってしまう。
そんな私を前に、再び溜め息を吐いたその子は、壁に手をついて立ち上がると未だに尻餅をついたままの私を悠々と見下ろした。
どこか、冷めている印象を与える目。
黒髪の映える青白い肌は、長い間陽の光を浴びていないことを容易に連想させて、彼の生気を奪って見せた。
「……っていうか、人の顔ばっかジロジロ見てないで、早く携帯、返してくれない?」
「え……あ、ご、ごめんなさい!」
慌てて立ち上がって携帯電話を差し出せば、あからさまに嫌な顔をされて「チッ」という舌打ちまで返された。
背は、私の肩くらいだ。身体は随分華奢で、今のようにぶつかったら、いつでも簡単に倒れてしまうに違いない。
外見から中学生くらいだろうことは想像がつくけれど、雰囲気だけがなんだか大人びているから、高校生である私の方が怖気づいてしまった。
「本当に、気を付けろよ」
「ご、ごめんなさい……」
肩を落として素直に謝れば、今度は「ふんっ」と鼻を鳴らされた。
なんとなく、だけれど。この子……長いこと、ここに入院している子だったりするのかな?
彼の容姿や雰囲気から、そんなことを想像させる。
つい眉間にシワを寄せて、目の前の男の子を見つめていれば、私の視線に気がついたその子が突然、意味深に微笑んだ。
その笑顔はとても冷たく、私が知っている中学生の無邪気さの欠片もない笑顔で、一瞬、ゴクリと喉が鳴る。
「今度からは、気を付けろよ。オバサン」
「オ…………オバサン!?」
「オバサンだろ。物珍しそうに人の顔ばっか、ジロジロ見て。そんなに " 可哀想 " に見えるかよ、この俺が」
「……っ!!」
その言葉に、今度こそ返す言葉を失った。
けれどその子は、青褪める私を見て馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、さっさとエレベーターに乗って扉を閉めて行ってしまった。
「美雨? 大丈夫?」
「オバサン……」
ぽつり、と。零した言葉に、雨先輩が「最近の子は生意気だな」と苦笑いを零した。
だけど、渡された言葉よりも深く、深く私の心に突き刺さったのは、あの子の温度のない瞳と表情だ。
そして、『そんなに " 可哀想 " に見えるかよ』と、吐き捨てるように言ったあの子の、哀しみに濡れた声だった。