「頑張れない時は、頑張らなくていい。でも、ずっと頑張らないでいたら、自分の手には何も残らない」
いつの間にか、頬を伝った涙の雫。それを拭うことさえ忘れて、私は真っ直ぐにカズくんを見つめていた。
「それに……やっぱり、頑張った方が楽しいと思う。未来でも、頑張った分だけ楽しいことがたくさん待っててくれる気がする。だから、頑張りたいって思うんだよ。……俺は、な?」
ニッ、と。そんな音が付きそうなくらい、イタズラに笑ったカズくんの笑顔は、子供の頃とは少しも変わっていなかった。
今日も、茜色の光が、群青の中に消えていく。
その中でも最後の最後まで空を染めるその色は、どこまでも力強く真っ直ぐだ。
いつの間にかブランコを降りたカズくんが、ケンケンで遠く離れた靴を取りに向かう。
「…………っ、」
その背中を視線で追いかけながら─── 私はブランコの上に立ち上がると、先にカズくんがやったように、身体を大きく揺らした。
「……は、っ」
高く、もっと高く。風を切るように。
空が近くなって、視界の地面が滑るように動く。
自分が飛ばした靴の場所までカズくんが辿り着き、それに足を通して息を吐く。
そうしてゆっくりと、カズくんが私の方へ振り向いたところで───
私は、片足を強く、振り上げた。
「うわっ!」
綺麗な弧を描いて飛んでいった私の靴。
それは、カズくんの頭上を超えた先で、乾いた音を立てて着地した。
「ミウ、何やってんだよ、急に!」
「……っ、飛んだ」
驚いているカズくんを置き去りに、ぽつりと零せば、胸の奥から次々と熱い何かが込み上げてくる。
小さい頃、カズくんに負けたくなくて、いつか絶対に勝ちたくて。この場所で、何度も何度も練習した。
いつか絶対、カズくんよりもっと遠くに飛ばしてやるんだ、って。
いつか必ず、カズくんに勝ってみせるんだって、そう思って。
「……っ、カズくん、私の勝ちだよ!!」
「ミウ、お前、実はコッソリ練習してたろ!」
飛んでいったばかりの私の靴を片手に持ったカズくんが、やっぱり笑いながら言う。
それに「過去で、いっぱい頑張ったからね!」と返事を返した私は、今という未来で笑っていた。
金曜日の雨間
──────────*
「ミウ、おはよう。お母さん、もう行くけど、お弁当テーブルの上に置いてあるから忘れずに持って行ってね」
金曜日の朝。
うるさい目覚ましに起こされた私がリビングの扉を開けると、すでに仕事へ向かう準備を整えたお母さんと鉢合わせた。
「お母さん、今日は早いね…?」
「うん。昨日から、ちょっと容態の気になる患者さんがいてねー。それに、やらなきゃいけないことも、いくつかあって」
トレンチコートを羽織りながら、笑顔で答えるお母さんが横を通り過ぎると、優しい風が頬を撫でた。
その風に誘われるように、玄関に向かうお母さんの後を追う。
まるで、小さな子供みたい。
そんなことを思いながらお母さんの背中を見つめていれば、後ろに立つ私の気配に気が付いたのか、お母さんは視線だけで振り向くと私を見て優しく目を細めた。
「今日は日勤だし、夕飯はミウの好きなもの作ってあげるからね」
「何時頃、帰ってくる……?」
「うーん。早くても6時半くらいかなぁ。だから夕飯は、7時半頃になっちゃうかも」
「そっか……」
「できれば、ご飯だけ炊いておいてくれると助かるな……って、わっ。もう、こんな時間!それじゃあ、お母さん行くね?いってきま─── 」
「あ、あのね、お母さん……!私、大切な話があるんだけど……!」
「大切な話?」
ドアノブに手を掛け、今にも外に出ようとしていたお母さんは足を止め、今度こそ身体ごと振り向いた。
そのまま真っ直ぐに私を見つめ、不思議そうに首を傾げる。
そんなお母さんを前に、私はどう自分の気持ちを伝えたら良いのかわからずに、思わず視線を斜め下へと逸らしてしまった。
「ミウ?大切な話って?」
「それは……帰ってから話す。ごめんね、仕事行く前に引き止めちゃって……」
自分でも、なんて悪いタイミングで切り出してしまったのかと呆れる。
今から仕事に出るという時に、する話じゃない。
大切な話があるなんて、そんなことを言ったらお母さんだって内容が気になってしまうに違いないし、仕事に行き難くなってしまう。
「でも、大切な話なんでしょう? 本当に、帰ってからで大丈夫なの?」
「うん……。私も、ゆっくり話したいから……」
「そう……」
言いながら語尾をすぼめれば、小さな溜め息が零された。
恐る恐る顔を上げると、どこか呆れたような、脱力したような表情のお母さんと目が合って、今度こそ申し訳なさで胸が痛んだ。
「わかった。じゃあ、今日の夜に話そうね。約束。それじゃあ、いってきます」
「……いってらっしゃい」
名残惜しそうに、閉まるドア。
ごめんね、お母さん。……ありがとう。
心の中で零した言葉は、声にならない。
お母さんを見送った後、私は、しばらくその場に呆然と立ち尽くしたまま動けなかった。
* * *
「……未来を変える方法?」
昼休み、当たり前のように屋上に向かった私は、既にそこにいた雨先輩へ唐突に言葉を投げた。
『雨先輩。私、未来を変えたいです。何か良い方法はありませんか?』
なんの予告もなく、そんなことを言われた雨先輩は狐に摘まれたような顔をして私を見ている。
当の私はといえば、両手を腰に当てて、口をへの字に結びながら雨先輩の前で仁王立ちだ。
「急に何を言い出して……っていうか、どういう心境の変化?」
けれど、雨先輩は相変わらず落ち着いていて、興奮気味の私とはまるで正反対の場所にいる。
後ろに見える空は相変わらず青く澄み渡っていて、それが更に私の気分を高揚させた。
「私、昨日の夜、考えたんです。雨先輩は未来は変えられないって言うけど、それは雨先輩に変えられないってことで、雨先輩じゃない私だったら未来を変えられるんじゃないか……って」
言いながらスカートのポケットから取り出したのは、折りたたまれた一枚の紙。
それを拡げると、私は書き連ねた文章を一つ一つ読み上げた。
「つまり、ですね」
今までのことを整理してみると、こうだ。
まず、今目の前にいる雨先輩は " 未来を見る " 不思議な力を持っている。
雨先輩が見た未来は、必ず現実になるらしい。それで言うと、私はどうやっても3日後に死んでしまう。
雨先輩は、自分が見た未来を自分の手で変えることはできない。なぜなら、変えてしまうと未来を見る力を失うどころか、雨先輩自身がこの世界から消えてしまうからだ。
未来のことを強く考えている相手の目を見てしまった時だけは、雨先輩の意志とは関係なく、相手の未来が見えてしまうことがある。
そして、雨先輩に見えるのは他人の未来だけで、自分の未来を見ることはできない。
「これで言えば、もしかしたら雨先輩が見た未来を、雨先輩じゃなくて私が変えることは可能かもしれないってことですよね? これまで、そういう実例がなかっただけで」
「…………こんなこと、よく、まとめたね」
胸を張って言えば、雨先輩はどこか呆れたように笑った。
「だけど実例がないことで言えば、俺が未来を変えると俺自身に色々起こるらしいってことも同じだよ」
風が、雨先輩の前髪を優しく揺らす。
真正面から向けられた笑顔が、とても綺麗で。太陽の光に照らされた姿がとても綺麗で、一瞬、見惚れてしまった。
現実から切り離されたような、空に浮かんでいる雲のような、掴めなくて、不思議な人。
こんなこと、この数日間で何度思ったのかもわからないけれど。
それでも未だに、何もかもが現実的ではない、とても、とても不思議な人だ。
「美雨?」
「……っ、あ、雨先輩に何か起こるかもしれないっていうのは、リスクを考えたら同じじゃありません!」
「うーん、そうかな」
「そうですよ! それに、この紙のことも、" こんなこと " とか言わないでください!」
「え?」
「私にとっては、生きるか死ぬかの瀬戸際なんですから! 大切なことなんです! そりゃあ、雨先輩には関係のないことかもしれないけど……」
慌てて視線を逸し、唇を尖らせた私は手の中の紙をキツく握った。
─── 昨日の放課後、カズくんと話して、私も私なりに考えてみた。
思えば、雨先輩に『一週間後に死ぬ』と言われてから、私は『死ぬ前に何ができるのか』ということばかり考えていたのだ。
だけど、それより先に考えてみたくなった。
『自分が死なずに済む方法は、何かないか』……ってこと。
それは、ただの悪足掻きに過ぎないのかもしれないし、まるで意味のないことかもしれない。
それでも私は、やるだけやってみたいと思ったんだ。
未来のない未来を前にしても逃げなかったユリ。
約束された未来があっても、頑張ることを止めないカズくん。
そんな二人を前に、私にもまだ何か、できることがあるのかもしれないって。
「無謀だって、思ってくれていいです。無駄なことだって言われてもいい」
「…………」
「でも……私はやっぱり、このまま死ぬのを待つのは嫌だと思ったんです」
「…………」
「だから、何かヒントがあれば教えてください。どんな些細なことでもいいので、思いつく限りのことを私に─── 」
と。そこまで言えば、私を鋭く見る雨先輩の視線と視線がぶつかった。
思わず言葉を止めて、雨先輩を見つめる。
あからさまな怒りを孕んでいる目に戸惑って、つい声の出し方を忘れてしまった。
「……関係ないなんて、言うなよ」
「…………」
「俺、はじめに言ったよな? 俺のせいで混乱させた以上、出来る限りのことをしたいって」
眉根を寄せながら、雨先輩は拳を強く握った。
今日も、屋上には冷たい風が吹いている。頭上の太陽が足元に黒い水溜まりを作って、私たちを試すように見つめていた。
「未来を変えたいと願う気持ちを無謀だなんて……無駄だなんて、絶対に思わない」
今まで一度も聞いたことのない強い口調に、今度こそ返す言葉を失った。
全身から力が抜けて、そのままその場に尻餅をついてしまいそうになる。
……私、雨先輩のこと、やっぱり少し勘違いしていたみたいだ。