たとえ声にならなくても、君への想いを叫ぶ。

 


だからこそ。

樹生先輩の名前にも、その名前を付けたご両親の愛と願いが篭っているはずなんだ。




「(だけど私、先輩の名前が素敵だと思った理由が、もう一つあるんです)」


「……、」


「(“樹”という一字だけでも“イツキ”と読むのに、ご両親はどうして“生”という字をつけたんでしょうか)」


「……っ、そんなの、」


「(命を扱うお仕事、お医者さんをしている先輩のお父さんにとって、“生”という字は特別なものだと思うんです。そんな特別な思いの篭った字を……、ご両親は先輩の名前に選びました)」


「……、」


「(先輩を傷付けた私が、言う言葉じゃないのはわかってます。全ては私の推測だし、先輩に受け入れてもらえなくても仕方ないとも思ってます。でも、これだけは言わせてください。少なくとも先輩は……いらない子、なんかじゃない)」


「……っ、」


「(先輩が生まれた時、きっとご両親は喜んで。そして、“樹生”という名前を先輩にくれたんだと、私は信じたい。信じてるんです)」


「そんな、こと……」


「(そして先輩は、その名前に恥じることのない……凛とした、一本の樹のように、今日まで強く逞しく生きてきたんです。そんな先輩が、今度は“生”を繋ぐための、お医者さんを目指してる)」


「……!」


「(こんなに、素敵なことってありません)」


 
 


そこまで間髪入れずに携帯で文字を打ち、そのせいでほんの少し痺れる指に願いを込める。


どうか。

どうか私の言葉が少しでも、先輩に届きますように。


私の声が、先輩に聞こえますように。



「(先輩は優しさなんか持ち合わせていない、自分は人の幸せを邪魔する存在なんだと言っていたけど、そんなことありません)」


「……し、おり」


「(だって、私は先輩に出逢えて幸せです)」


「……っ、」


「(ついさっき、先輩のご両親に腹が立つなんて言ったけど。この世界に先輩を立たせてくれたこと。先輩に出逢わせてくれたことを、私は先輩のご両親に、心から感謝します)」



 
 


そこまで言うと、微笑んで。


私は静かに携帯と勉強道具を鞄の中にしまった。


立ち上がり、座り込んだままの先輩に一度だけ頭を下げて脱衣所へ向かう。


先輩に借りたパーカーを脱ぎ、すっかり乾いたブラウスに腕を通した私は再び鞄を手に持って玄関の扉を開けた。



「(……先輩、また明日、です)」



扉を閉めて、心の中で呟いたその声は、リビングにいるはずの先輩に届くことはない。


ここに来た時のようにエントランスを抜け外に出ると、あんなに酷かった雨は上がっていて。


見上げた先に広がる夕焼けの空には、大きな虹が掛かっていた。



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 『Rosemary(ローズマリー)』

 誠実・変わらぬ愛
 あなたは私を甦らせる


 
 




─── 照りつける太陽と首筋をなぞる汗、身体を溶かすような暑さに私は小さく溜息を吐き出した。


終業式を終え教室に戻ってきた私達は、担任の先生からのお決まりの注意事項と長い話を聞き、いつも通りの挨拶を交わしながら帰り支度をしていた。


……気が付けば一学期を通り過ぎ、明日からは待ちに待った夏休み。


けれど私は、晴れることのない心を抱えて、もうスッカリ癖になりつつある溜息を吐き出して俯いた。



(……はぁ、)



夏休み前だというのに憂鬱な心。その理由の一つが……あの日以来、私を避けるようになった蓮司との関係だ。



 
 


「栞、夏休み、遊べる日は遊ぼうね!」


「(……うん。……でも、)」


「あー、ね。結局、あれから一度も話せないままだもんね……。まったくさぁ、アイツ……蓮司も頑なっていうかさ……」


「(……うん、)」


「でもさ、大丈夫だよ!蓮司は栞と長い付き合いだし、その内また前みたいにバカな話が出来るようになるよ!だから、ね?今年の夏は、女だけで楽しも!」



ポン、と。私の肩を叩いて笑顔を見せるアユちゃんも、どこか元気がないように見えるのは、きっと私の気のせいではないだろう。


樹生先輩の事で蓮司と衝突したあの日から今日まで、蓮司と一度もまともな会話をしていない。


あからさまに私を避ける蓮司はアユちゃんの事さえ避けているようで、同じ教室にいる私達の事を視界に入れようとすらしなかった。


そんな態度に呆れたアユちゃんが一度、「いい加減にしなよ!」と怒ると、「もう俺には話し掛けてくんな」なんて。


それだけ言って、再びそっぽを向いてしまった蓮司は昔から強情だ。


一度“こう”と決めたら貫き通す蓮司らしいといえば蓮司らしいけど、こんなにも突き放されたのは初めてで、最初は酷く戸惑った。


 
 


LINEをしても既読スルーされるし、電話をしようにも声の出ない私は電話をすることも出来ない。


なんとか蓮司に話し掛けようとしても、部活の忙しい蓮司を放課後に捕まえる事も困難で。


休み時間も他のクラスメイトの輪の中に消えていく蓮司を追いかけて行っても、まるで私の存在なんて皆無の様な態度で目すら合わせてもらえなかった。



(蓮司の……分らず屋)



心の中でそう悪態づいても、切なさは募る一方。


こんな風に気まずい空気であり続けるくらいなら、いっその事謝ってしまおうか……とも思ったけれど、それは自分の心が許せなかった。


だって、それをしてしまえば蓮司があの日言った言葉を肯定することになってしまうから。


先輩の真実を知った今、あの日の蓮司の言葉を受け入れる事も、許す事も出来ない私は結局、今日の今日まで歩み寄る事が出来ずにいたのだ。


 
 


(……蓮司とでさえ、こんな風なのに)



今日何度目かもわからない溜息を吐き出した私は、駅に向かって一人、俯きながら歩いていた。


夏服のスカートが、ゆらりと風に靡く(なびく)。


憂鬱な心の理由。

その一つである蓮司との事以上に、私の心に重くのしかかるのは、もう一人の存在だった。



(樹生先輩、あれから大丈夫かな……)



先輩の過去を聞き、初めて先輩の心の傷を知ったあの日。


偉そうに先輩に対して意見と憶測をぶつけたあの日を境に……


私は先輩とも、一度も話をしていなかった。


 
 


(……はぁ、)


話をしていない、というだけであればまだ救いようがあるのかもしれない。


先輩の顔を見ることができて、先輩の様子を伺う事ができたのなら、ここまで憂鬱にもなっていないのかも。


─── そう。

あの日以来、樹生先輩は毎朝乗っていた時間の電車にも現れることもなくなり、更には図書館にも一度も来ていないのだ。


と言っても、もしかしたら図書館には来ているのかもしれないけれど、偶然顔を合わせることはなくなった。


図書館で顔を合わせなくなっただけなら、時間が合わなくなったのか……または、アルバイトや受験勉強が忙しいとか。


色々な理由は思い浮かぶけれど、朝の電車にも現れないことを思えば、先輩にも避けられていることは明白だった。


 
 


(やっぱり、余計なお世話……だったよね)



先輩が朝の電車の時間に現れなかった初日は、あんなこと言わなきゃ良かったって、さすがに後悔した。


何も言わずに帰った方が、先輩は救われたのかもしれないと、何度も何度も考えた。


だけど、今更後悔したって意味がないんだ。


あの日の先輩を前に、何もせずに帰るという選択肢は、私には選べなかったと思うから。


先輩を放って帰ることなんか、できなかった。


だけど……そう、思うのに。


やっぱり、樹生先輩に会えないのは寂しくて、悲しくて……苦しくて。


何より、先輩が今でもあの部屋で一人、哀しみを抱えているのかと思ったら、心配で不安で仕方がなかった。