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「……ええと。じゃあ、とりあえず、自己紹介からいくか」
放課後の教室。
先生に指名された三人と、遠藤くん。
普段では絶対にありえない組み合わせの四人で向かい合うと、しばらく気まずい沈黙が流れて。
それから、三浦くんが空気を変えるように口を開いてくれた。
「三浦、たまにはいいこと言うじゃん。やっぱり最初は自己紹介だね」
染川さんが三浦くんの言葉に頷き、遠藤くんに向かってにっこりと笑いかける。
「じゃ、私からいくね。染川梨花、北中出身。よろしくね、遠藤くん」
遠藤くんはちらりと目を向けただけだった。
きっと、それが彼なりの最大限の挨拶なのだろう。
「俺は、三浦嵐。中学は港南だよ。よろしくな、遠藤」
三浦くんも人懐っこい笑みで遠藤くんに声をかけ、すっと右手を差し出す。
遠藤くんは迷惑そうに眉をひそめて、それでもゆっくりと身を起こすと、手を出して三浦くんと握手をした。
あの無愛想な遠藤くんが握手に応えるなんて、と驚いてしまったけれど、男の子に対しては少しは壁が低いのかもしれない。
ぼんやりと三人の様子を見ていると、三浦くんと染川さんの視線が私に集まった。
次は私の番だ。
心臓がばくばくと音を立てはじめる。
遠藤くんだけは、いつものように窓の外を見ていた。
「……霧原、美冬です。ええと……力になれるか分からないけど、これからよろしくね、遠藤くん」
そっぽを向いている遠藤くんを見つめながら言ったけれど、案の定、なんの反応もしてくれない。
なんて冷たい横顔なんだろう。
私は小さく息を洩らした。
「……美冬って、可愛い名前だね!」
いきなり染川さんが声をあげたので、すこし驚いて私はそちらに視線を向ける。
「そんなに可愛い名前なのに、呼ばないのもったいないな。ねえ、これから美冬って呼んでもいい?」
唐突な申し出に私は目を丸くした。
私のことを下の名前で呼ぶのは、家族と親戚と、あとはほんの数人の幼馴染みだけだ。
でも、親戚にはあまり会わないし、幼馴染みたちとは中学や高校で学校が離れてしまったから、今、日常的に私を『美冬』と呼ぶのは、お父さんと妹くらいだ。
だから、染川さんの提案は私にとっては予想外で、なんだか落ち着かなくなってしまう。
動揺して何も言えずにいると、
「……だめ?」
染川さんが私の顔色を窺うように覗きこんできた。
私は慌てて首を横に振る。
「だめなんかじゃないよ! ただ、ちょっとびっくりしただけで……むしろ、嬉しいよ」
そう、嬉しい。
名前で呼んでもらえるだけで、すごく距離が縮まったような気がする。
染川さんがそんなふうに距離をつめてきてくれたことが嬉しかった。
「ほんと? よかった。じゃ、これからは美冬って呼ばせてね」
染川さんがにっこりと笑いかけてくれる。
嬉しくて頬が熱くなるのを感じながら、私はこくりと頷いた。
すると三浦くんが、「それ、いいな」と唐突に言った。
「せっかくこうやって四人で勉強会やることになったんだからさ、なんつうか、特別感欲しいよな」
「特別感?」
染川さんがきょとんとした表情で訊ね返すと、三浦くんが深く頷いた。
「そう、特別感。だって、この四人が集まったのって、奇跡って言うか、運命だろ」
三浦くんはにっと笑って、私と遠藤くんを交互に見る。
「ああ、なんか分かるかも」と染川さんが頷いた。
「だろ? だからさ、俺ら、これから名前で呼び合うことにしないか?」
――名前で呼び合う。
それは、私みたいに人付き合いの苦手な性格の人間からしたら、とてもハードルが高い。
私が乗り気でないことに気づいたのか、三浦くんがさらに言葉を続ける。
「俺、思うんだけどさ。名字って、いつ変わっちゃうか分かんないだろ? でも、下の名前は変わらないから、名前で呼び合ったほうが、なんつうか、ずっと続く関係っていうか……」
言葉を選ぶようにゆっくりと話す三浦くんを、遠藤くんがじっと見つめていた。
「ふうん? 分かるような、分からないような」
染川さんが言うと、三浦くんが「ごめん、うまく言えないわ」と頭を掻いた。
「でも、確かにそうだよね。三浦と遠藤くんは男だからあれだけど、私と霧原さん……美冬は、結婚して名字変わっちゃうかもしれないもんね。ま、結婚できればの話だけど」
「男だって変わるかもしれないだろ」
染川さんの言葉を遮るようにそう言ったのは、遠藤くんだった。
私と染川さんは驚いて目を向けたけれど、彼は一言つぶやいたきり、ふたたび黙りこむ。
三浦くんは静かに頷いていた。
どういう意味なんだろう、と私は内心で首を傾げる。
結婚したからといって必ずしも女性が男性の籍に入るとは限らないから、男性が相手の名字に変わることもある、とそういうことを言っているのだろうか。
「まあ、でも、なんにせよ、名前で呼び合うっていいよね。仲良くなった感じがするし」
染川さんが明るく言って、一人一人を指差しながら、
「美冬、嵐、雪夜」
と名前を呼んでいった。
三浦くんが「いいじゃん、なんかしっくりくる」と笑い、
「お前は、梨花、だな」
と染川さんに微笑んだ。
思いがけない展開にどぎまぎしながらも、私は心の中で、三人の名前を呼ぶ。
梨花ちゃん、嵐くん、そして――雪夜くん。
新しい世界が開けたような気がした。
「おい、雪夜。お前もだぞ?」
三浦くんがにやにや笑いながら遠藤くんに顔を近づけると、遠藤くんは迷惑そうに顔をしかめた。
でも、前髪の隙間から覗く瞳は、意外にも柔らかい色を浮かべている。
「ちゃんと名前で呼ばないと、勉強教えてやらないぞ?」
「……べつに、」
「べつに俺は頼んでないし、とか言うのナシな!」
「……」
「ちゃんとテスト対策しとかないと、赤点とったら面倒だぞ?」
「……わかったよ」
遠藤くんが諦めたように小さく呟いた。
なんだろう。
無口でいつも不機嫌そうな遠藤くんだけれど、三浦くんに対しては少し心を開いているような気がする。
さすが、クラス委員長の三浦くんだな、と私は心のなかで拍手を送った。
「自分で言って思い出したけど、これ、勉強会だったな。そろそろ本題に入るか」
三浦くんが言うと、染川さんが「はあい」と手をあげて、教科書を準備しはじめた。
「ほら、雪夜! ちゃんと用意しろよ。せっかく教えてやるんだから」
遠藤くんは、はいはい、というように肩をすくめて、引き出しから教科書を取り出した。
「で、どの教科やる?」
染川さんが言うと、三浦くんが「そうだなあ」と首をひねり、
「どういうやり方がいいかな。たとえば一教科三十分ずつ、とか決めて、各教科を毎日少しずつやるか」
「なるほど、よさそう」
「それか、今日は国語、今日は数学、って感じで一日に一教科ずつにして、各担当者と雪夜で、」
「それは嫌だ」
三浦くんの言葉を遮るように、遠藤くんが言った。
強い声だった。
三浦くんと染川さんがぱっと遠藤くんを見る。
遠藤くんは険しい表情で、
「そいつと二人きりにだけはなりたくない」
と三浦くんに告げる。
そいつ、というのが私を指していることは、誰にでも分かった。
私は息苦しくなって俯く。
「……おい、雪夜。いくらなんでも、言い過ぎだろ」
「そうだよ。昨日から思ってたけど、なんなの? どうして美冬にだけそんな反応なわけ?」
三浦くんと染川さんが説得するように言ってくれたけれど、遠藤くんは何も答えない。
「なんとか言いなさいよ」
染川さんが遠藤くんの顔をのぞきこむようにして言うと、三浦くんが「まあまあ」と彼女の腕を引いて止めた。
「こいつにもなんか事情があるんだろ」
「でも、無視とか暴言とか、ひどすぎでしょ」
「こいつは昔から無口だし、のくせに口悪いし、でもそれほど悪気があるわけじゃないんだよ」
三浦くんの言葉に、私と染川さんが同時に「えっ」と声をあげた。
「昔から?」
染川さんが怪訝そうな顔で三浦くんと遠藤くんを交互に見る。
三浦くんは一瞬、ばつの悪そうな表情になったものの、すぐにけろりと笑った。
「いや。昔ちょっとな、知り合いだったんだよ、俺と雪夜」
「えっ、そうなの? 中学おなじ?」
「いや、違うけど」
「じゃあ、どういう知り合い?」
染川さんがさらに訊ねると、三浦くんはちらりと遠藤くんを見て、それから染川さんに向き直った。
「ま、男同士には色々あるんだよ」
おどけて答える三浦くんに、染川さんは「なにそれ、意味深!」と笑ったものの、それ以上は何も訊かなかった。
話したくない事情でもあると思ったのかもしれない。
染川さんはとても気づかいができる人だな、と思った。
「ま、それはさておき。話戻すぞ? 毎日五教科を少しずつやるってことでいいか?」
三浦くんが言うと、染川さんが頷いた。
「でもまあ、それだと大変だし、国数英は毎日で、理科と社会は交代とかにしよう。そしたら二時間くらいで終われるでしょ」
「ああ、そうだな。じゃ、四時開始で、六時までってことで」
二人でさくさくと決めていく。
リーダーシップがあるなあ、とさらに感動した。
私はこういう場面では黙って周りの言うことを聞いていることしかできない。
「いいのか?」
唐突にそんな声が聞こえた。
遠藤くんだ。
彼は三浦くんを見て、染川さんを見て、それから一瞬だけ私に目を向けた。
「いくら部活に入ってないからって、毎日毎日ヒマってわけじゃないだろ。お前らだって、用事くらいあるんじゃないか?」
遠藤くんは静かに言いながら、窓の外に視線を投げる。
「私は大丈夫だよ、暇人だから。他の二人は?」
染川さんがそう言って私と三浦くんを見た。
三浦くんは大きく頷く。
「俺も大丈夫。どうせ家に帰ってもやることないし、勉強会やれば、自分の勉強にもなるしな」
二人の答えを黙って聞いていた遠藤くんが、
「……そいつは?」
と小さく言った。
私のことだと分かった。
今まで無視ばかりされていたのに、いきなり話に出されて、勝手に鼓動が早くなる。
動揺を隠しながら、私は「大丈夫」と答えた。
すると遠藤くんの横顔が動いて、こちらに視線がとまった。
「本当に、いいのか」
念を押すように訊かれて、どうして私だけ、と思いながら、「うん」と頷く。
「……家のこととか、習い事とか、色々あるだろう」
彼はまるで独り言のようにつぶやいた。
どうしてそんなに、と思ってから、はっと気がついた。
きっと、彼は私にこう答えてほしいのだ。
『私は忙しいから、この勉強会に参加するのは無理だ』と。
彼はこのグループに私が入っているのが嫌なのだ。
だから断ってほしいのだ。
そうすれば、大嫌いな私と顔を合わせずにすむから。
のどの奥がぎゅうっと苦しくなって、目頭が熱くなった。
あ、と思って手で押さえたときにはもう手遅れで、ぽろりと涙が一粒こぼれてしまった。
「……あっ、美冬!」
染川さんが気づいて声をあげ、三浦くんと遠藤くんも小さく息をのんだ気配がした。
だめだ、こんなところで泣いたら。
泣くのはずるいし、最低だ。
それに、みんなに引かれてしまうし、困らせてしまう。
そう思って、なんとか涙を止めようとしたのに。
「大丈夫!?」
染川さんが私の肩を抱いてくれたその手の優しさに、さらに涙があふれてきてしまった。
三浦くんが「あーあ」と肩をすくめて、
「雪夜、とうとう泣かせちゃったな」
と遠藤くんに言った。
遠藤くんはぎゅっと唇を引き結んで、ふうっと息を吐いた。
それから、何かを言おうとするように薄く口を開き、でも結局は何も言わず、また口を閉じた。
ふいっと横を向き、しばらくしてからぽつりと言う。
「……こんなことくらいで、いちいち泣くな」
私に向けられた言葉だと分かった。
そうだよね、と思う。
これくらいのことでいちいち泣くなんて、情けない。
子供じゃないんだから。
私は納得していたけれど、染川さんが呆れたように「はあ?」と遠藤くんに食ってかかる。
「なに、その言い方! あんたが泣かせたんでしょうが!」