傷つけたくない 抱きしめたい








次の日は土曜日だったので、私は朝いちばんで電話をかけて施設の人に許可をもらい、昼過ぎにしらとり園を訪れた。


「雪夜くん」


食堂の一角で幼稚園くらいの子供たちと積木遊びをしていた背中に声をかけると、振り向いた彼は唖然とした表情になった。


「え……え? お前、なんで、お前がここに?」


混乱している雪夜くんをよそに、周りの子供たちがわっと歓声をあげて駆け寄ってきた。


「ピアノのお姉ちゃんだ!」

「わあ、久しぶり!」

「今日も弾いてくれるのー?」


何人もに抱きつかれてよろけながら彼らの頭を撫でて、私は「あとでね」と笑った。


「雪夜くんと……話があるから」


じっと見つめてそう言うと、雪夜くんの顔がみるみる険しくなっていった。


「……どういう、ことだ?」


私は何も答えず、彼の手をそっとつかむ。

見ていた子供たちの一人が、「ひゅーひゅー!」とはやし立ててきた。


それに笑みで応えて、私は雪夜くんの手を引いて歩き出す。

「なにー? デート?」と騒ぐ子供たちの声を背中で聞きながら、私たちは施設の外へ向かった。


雪夜くんは何も言わない。

足を止めて振り向き、正面で向かい合うと、彼は真っ青な顔をしていた。


「雪夜くん、大丈夫?」


私が訊ねると、彼は唇を震わせてから、


「美冬……まさか……」


と呟いた。


私はこくりと頷く。

それから口を開いて、彼の言葉に答えた。


「思い出したよ……全部。ずっと忘れててごめんね、雪夜くん……」


その瞬間、雪夜くんの表情が崩れた。


苦しげに浅い息を吐き、両手で顔を覆って、その場に崩れ落ちる。


「雪夜くん!」


私は慌てて駆け寄り、横にしゃがみこんだ。


「……で……」


雪夜くんは声にならない声で言った。


「なんで……? なんでだよ……。なんで、思い出しちゃったんだよ……、くそ……っ」


聞いているこちらが泣きそうになってしまうほど、あまりに悲しげな声だった。


「俺が、俺がどんな思いで……! お前が絶対に何も思い出さないように、無視して、何も見せないように、隠してきたのに……なんで……っ!」


悔しそうに、何度も拳で地面を打つ。


「だめ! 怪我しちゃう……」


私は雪夜くんの手を両手で包み込み、それに頬を寄せた。

握りしめた彼の拳は、かたかたと震えていた。


「……ごめんね。でも、思い出しちゃったの」

「なんで……、昨日のライブか? くそ、やっぱりやめとけばよかった……っ」


雪夜くんの手に頬を当てたまま、ふるふると首を横に振る。


「違うよ。それだけじゃなくて……」


私は鞄の中から思い出の品を取り出し、彼に見せた。


折り紙のチューリップ。

使っていない絆創膏。

ピアノ柄のペンケース。

銀色のネックレス。

『Am Dm G C……』と書かれたノートの切れ端。


雪夜くんの目が大きく見開かれる。

それから苦しそうに呻き声を洩らした。


「馬鹿……っ!」


こんなに取り乱した彼の姿を見るのは初めて――いや、二回目だ。


「なんで、こんなもん、後生大事にとってんだよ! 捨てろよ……」


雪夜くんがノートの切れ端を私の手から引ったくるように奪い取り、くしゃりと握りつぶした。


「こんなん、ただのゴミだろ……捨てればよかったのに。そしたら、思い出したりなんかしなかったのに……」


私はそれを彼の手から抜き取り、丁寧に引き伸ばしていく。


「……捨てるなんて、そんなこと、できるわけないよ」


唇に自然と笑みが浮かんだ。


「だって、雪夜くんが私にくれたものは、全部、宝物だから……。どんな小さなものでも、大事な……」


捨てられるわけがなかった。


雪夜くんが子供たちと一緒に作って、何気なく私にくれた折り紙。

私が指を怪我したときに、照れくさそうな顔をして無言で差し出してくれた絆創膏。

一緒に買い物をしていたときに見つけて眺めていたら、後からこっそりと買って渡してくれたペンケース。

去年のクリスマスにプレゼントしてくれた銀色のネックレス。

二人で一緒に作った曲のコードを雪夜くんが走り書きした、ノートの切れ端。

雪夜くんがギターを弾いている横で『それ、きれいな色だね』と言ったら、『そんなに気に入ったならやるよ』と笑ってくれた、涙の雫のピック。


いくつもの宝物についての思い出が、全部、色鮮やかに甦ってきた。


「……雪夜くんがくれたものは、ひとつ残らず、大事に大事にとってたよ。嬉しくて嬉しくて、何度も宝箱から出して眺めてた」


雪夜くんが顔を上げる。

薄く唇を開いたまま私をまっすぐに見つめていた淡い色の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。


ひとつ、ふたつ、とこぼれる涙の雫。

なんて綺麗なんだろう。


指先ですくうと、雪夜くんは俯いた。


「……馬鹿だな、美冬。忘れたままでいれば、お前は幸せになれたのに」


私は「違うよ」と必死に否定する。そんなはずない。


「雪夜くんを忘れて、幸せになんかなれるわけない」

「そんなわけないだろ。忘れたほうがいいに決まってんだろ」


雪夜くんは力なく首を横に振る。


「俺なんかと一緒にいたら、美冬は……」

「そんなこと言わないで」


彼に『俺なんか』なんて言い方をしてほしくなかった。

でも、雪夜くんは「ちがう、ちがう」と私の言葉を否定する。


「だめだよ。だって、俺は……」


もうこれ以上言わないで、と訴えても、彼の言葉は止まらない。


「俺と一緒にいたら、美冬はいつか傷つくことになる。絶対に後悔して……不幸になる」


そんなはずないよ。

それは君の思い込みだよ。


だって、私のいちばんの幸せは、君と一緒にいることなんだから。


「――俺じゃ、だめだ。だって俺は、美冬の大事なものを奪ったんだから……」










私たちが初めて出会ったのは、二年前の冬の始めだった。


雪夜くんが暮らしていたしらとり園でのピアノ演奏会。


ちゃんと練習していったつもりだったのに、私は大失敗をしてしまった。

教室の発表会とは全く違う雰囲気の中で緊張しすぎてしまい、弾いている途中に頭が真っ白になって、手が止まってしまったのだ。


一度止まると、なかなか元には戻れなくて、次の音符を弾く指が震えた。

子供たちが「どうしたの?」、「続きは?」と声をかけてきて、さらに焦ってパニックになった。


そのとき、「俺も飛び入り参加しようかな」と言って観客の中から一人の男の子が立ち上がった。

それが雪夜くんだった。


彼が古びたアコースティックギターを持ってピアノの横に立つと、子供たちは嬉しそうにはしゃぎ出して、張りつめていた空気が一気に和らいだ。


「俺も一緒に弾いていい?」


私は慌てて頷いた。


「でも、この曲、知ってるんですか?」


私が弾いていたのは、一般にはほとんど知られていないクラシック曲だった。

でも彼は飄々とした様子で言った。


「知らないけど、まあ、なんとかなるだろ。今、途中まで聴いたし、だいたいで合わせるよ」


彼はアコギを抱えて床に座り込んだ。


奏でられた音は、一度聴いただけだというのに、ちゃんとピアノの和音と同じで、それに驚いた私はすっかり緊張がどこかへいってしまった。

それで、彼の音に合わせて最後まで、間違わずに弾くことができたのだった。



演奏会が終わったあと、私は彼の姿を探して感謝を伝えた。


「本当にありがとうございました。すごく助かりました。あなたがいなかったら、きっと最後まで弾けなかったと思います」

「別に、あんたのためにやったわけじゃないよ。ガキたちがぎゃあぎゃあ騒ぎ出すとうるさいからさ」


雪夜くんはなんでもなさそうにひらひらと手を振り、去っていった。

でも、それが彼の優しさなのだと私には分かった。


近くにいた女の子に彼の名前を教えてもらい、『雪夜』という名前は私の心に強く刻まれた。


それから数週間後、再びしらとり園にピアノを弾きに行った。

クリスマスコンサートということで、施設の中は色とりどりに飾られていた。


クリスマスソングを弾いて数曲目のときに、子供たちが私に「また雪夜お兄ちゃんと一緒にやって」と言い始めたので、二回目の共演をすることになった。

彼は「またかよ」と気乗りしないような表情をしていたけれど、子供たちにせがまれると「仕方ないな」とため息をつきながら前にやってきた。


その日、初めて雪夜くんの歌を聴いて受けた衝撃は、今でもはっきりと思い出せる。


今まで聴いたことがないくらいよく通る綺麗な声で、とても、とても優しかった。


彼と一緒に弾くのは本当に楽しくて、わくわくして、私たちはその日、子供たちに頼まれるままに十曲近く一緒に演奏した。


帰り際、施設のスタッフの人に声をかけられた。

「子供たちが雪夜とのセッションをすごく喜んでたから、よければこれからも、たまにピアノを弾きに来てくれない?」


それが、私がしらとり園に通うようになったきっかけだった。


雪夜くんは基本的に無口だし、あまり笑わなかったけれど、歌うときは本当に楽しそうだった。

私もつられて、ピアノを弾くのが大好きになった。

それまではただ楽譜通りに、間違わないように弾いているだけだったのに、雪夜くんと一緒に弾くようになってから、楽しみながら弾くことを知ったのだ。


演奏が終わると彼はまた無口になって、私と喋ることもほとんどなかった。

でも、私が子供たちに誘われて遊びに加わるようになると、少しずつ会話を交わすようになっていった。


初めは、子供たちに囲まれながら。

いつしか二人きりで。


私たちはいつも、施設の食堂の隅に置いてあるピアノの前に座っていた。

雪夜くんも私もたくさん話すのは得意ではないので、お互いの好きな曲を弾いて相手に聴かせることが多かった。


彼と一緒にいると、不思議と心が安らいで、今まで出会った人の中でいちばん、居心地が良かった。


それはきっと雪夜くんも同じで。

私の前では笑ってくれることが多くなった。


彼がどきどき見せるどこか寂しげな表情を、始めの頃から気がかりに思っていたけれど、そういう顔を見せることも少しずつ減っていった。


私にだけ見せてくれる少しはにかんだような笑顔を見ると、胸がどきどきして息が苦しくなった。


二人でいると子供たちにからかわれるので、それを恥ずかしがった雪夜くんが、これからは外で会おう、と言い出して、それからは一緒に出かけることが増えた。


外で会うようになってからは、二人でぶらぶらと街を歩くのがほとんどだった。

ただ歩いているだけなのに、雪夜くんとだとすごく楽しくて、それを伝えたら彼は真っ赤な顔になった。


なんとなく雑貨屋に入って店内を見ていたとき、鍵盤のペンケースを見つけてしばらく眺めていたら、次に会ったときに雪夜くんが「ん」と差し出してきた。

「気に入ってたみたいだから」とそっぽを向きながら言う顔が愛おしくて、そのとき初めて、彼のことが好きだと自覚した。


私はギターの形をしたキーホルダーを買ってお返しにした。


ある休日、いつものように長い散歩をしていた私たちは、たまたまあの教会を見つけた。

まだ屋根が崩れる前の、でももう何十年も前に使われなくなった、無人の教会。


入り口のドアが少し開いていたので、興味を引かれて中に忍び込んだ。

綺麗な十字架とステンドグラス、パイプオルガンと、楽器の音が美しく響く屋根。


一目で私たちはそこを気に入り、それ以来、会うときはいつもそこだった。


私がオルガンを弾き、雪夜くんはギターを弾いて歌を歌う。


いつしか二人で曲を作るようになった。

雪夜くんは、私が持っていたノートのページを切り取り、そこに作った曲のコードを書いて、それに合わせて私がピアノを弾けばいいようにしてくれた。

私もいつの間にかコードを覚えていた。


毎日が楽しくて、満たされていて、本当に幸せだった。


平日はほとんど毎日、放課後になると会っていたし、休日も予定がなければ会っていた。

それでも、学校にいる間や家に帰ってから、側にいられない数時間が永遠のように長く感じられるほど、二人でいるのが自然だった。


好きだなんて言い合ったことはなかったけれど、お互いにとってお互いが特別な存在だというのは、言葉がなくても伝わってきた。


初めてキスをしたのも、あの教会だった。

ステンドグラスを透かして射し込んでくる七色の光が雪夜くんの輪郭を縁どって、息を呑むほど綺麗だったのを覚えている。


いつまでもこうして二人でいられると思っていた。

離れる日がくるなんて考えられなかった。


中学三年生の夏休み、私たちは同じ高校を受験する約束をした。

ちょうど二人の住む町の間にある清崎高校を選んだ。

雪夜くんはもっと上の高校も受けられると先生に言われたようだったけれど、私と同じ学校に通いたいからと合わせてくれた。


彼は施設の人に遠慮して、塾に通うお金はないと言っていたし、私も夜になれば家のことをしなければならなかったので塾に通う時間はなかった。

だから教会で一緒に勉強した。


お互いの得意な教科を教え合って、そんな些細なこともすごく嬉しくて、二人でするなら受験勉強も少しもつらくなかった。