「姫さまったら毛虫を可愛がりすぎて、ご自分の眉毛まで、毛虫みたいにげじげじしてるものね」
「まあ、うふふ。ひどいこと言うわね。でも、確かにそうね。姫さまの歯だって、まるで皮が剥けた毛虫みたいだし」
「あら、あなたのほうがひどいわ!」
こんな冗談まで言って笑い合っているものもいる。
「とはいえ、いつまでもここでお仕えしていたいものよね。せっかく大納言どののお屋敷に雇っていただいたのだから」
「でも私、こんな毛虫まみれの生活、いつまでも耐えられそうにないわ」
「きっと大丈夫よ、そのうちこのお遊びにもお飽きになられるわ。今は毛虫みたいな身なりの姫さまだけど、成長なさって女盛りになれば、いつかは蝶のように美しくなられるはずよ」
「そうかしらねえ、毛虫が蝶に、ねえ………」
信じられないわ、と顔を見合せる侍女たち。
「でも、このお屋敷って」
なかでもひときわ若い侍女が冗談ぽく口を開いた。
この侍女は左近と呼ばれており、まだこの屋敷に出仕するようになってから日の浅い、幼さの残る少女である。
話し好きでくるくると表情を変えながらよく喋るので、年上の侍女たちに可愛がられている。
「ここのお屋敷は、冬が来ても衣には困らないのでしょうね。なんせ、これだけたくさんの毛虫がいるんですから」
「まあ、うふふ」
「おもしろいこと」
皆の反応がよかったのに気をよくして、左近は得意気に言葉を続ける。
「どんなに寒くっても、毛虫をひっかぶってしまえば、さぞ暖かいことでしょう? 姫さまも、いつも毛虫とご一緒にいらっしゃるのだから、もうお着物などお召しにならくてもよいでしょうに、なんて思いますわ」
「まあっ、いやだわ。なんてことをおっしゃるの、毛虫をかぶるなんて!」
「想像しただけで鳥肌が立っちゃう!」
「いくら虫好きな姫さまとはいえ、さすがにお着物代わりには、ねえ?」
黄色い声をあげて無邪気に騒いでいた若い侍女たちが、次の瞬間、いっせいに顔色を変えて口をつぐんだ。
「ーーーお若い方々。あなたたち、なにを騒いでいるの」
怒りの滲んだ低い声たともに、突然姿を現した古株の侍女の姿に気づいたからだ。
伊勢中将と呼ばれている彼女は、このお屋敷で最も年配の侍女であり、胡蝶の幼いころから面倒を見てきたこともあって、たいそうな『姫さまびいき』なのである。
しかも厳しく口うるさいたちの女なので、若い侍女たちはこれからの展開を予想して暗澹たる気分になった。
「まったく、近頃の若い人というものは、常識がなさすぎます。仕事もなさらずに、小鳥のようにぴいちくぱあちく……品がないったらありゃしない」
案の定はじまったお小言に、若い侍女たちは閉口した。
「しかも、自分たちのお仕えしている姫さまの陰口をおっしゃるなど、言語道断です。
いったいどんな教育を受けていらしたの? 親御さまの顔を拝見してみたいものですわ」
女たちがばつの悪そうな表情でうつむく。
伊勢中将の苛立たしげな言葉は続く。
勢いに乗ると止まらないたちなのだ。
「そもそもねえ、蝶を可愛がっているいらっしゃるというよその姫君なんて、まったく良いとは思いませんよ。むしろ嫌ですわ。そんな浅はかな御方より、うちの姫さまのほうがどんなにか聡明でいらっしゃることか。
その姫君がたが愛でていらっしゃる蝶も、もともとは毛虫なのですよ。あなたがたの忌み嫌う毛虫が脱皮して蝶になるのですからね。
姫さまは、毛虫が蝶になる様子を調べていらっしゃるのです。なんとまあ思慮深くていらっしゃることでしょう。
蝶なんて、触れると手に燐粉がついてしまって、たいそう不愉快だわ。しかも、流行りやまいの熱病の原因にもなるのよ。
ああ、嫌だ嫌だ、蝶なんて………」
伊勢中将はぶつぶつと文句を言いながら退出していった。
残された侍女たちはその後ろ姿を見送り、「いやねえ、年増女は説教くさくって」などと憎々しげに言い合った。
*
「………ふう、疲れたなあ」
いつものように政務を終えてお屋敷に戻ってきた大納言は、壷庭でわいわいと走り回っている男童たちに気づいて、そちらに目を向けた。
「お前たち、何を騒いでいるんだ?」
「ああ、お殿さま、お帰りなさいませ」
「胡蝶姫に言われて、虫を探しているんです」
「なるだけたくさんの種類の虫が見たいとおっしゃって」
「毛虫は可愛いけど歌や詩に詠まれていないので、見ていても頭を使わないのがつまらないから、歌に詠まれているような虫を見つけて来て、それを歌いなさいと」
父大納言は深々とため息をついた。
さきほど内裏で公卿たちと世間話をしていたことを思い出す。
どの公卿にも年頃の娘がいて、自然と話題は愛娘たちの結婚話になった。
やはり、良い婿を迎えるためには早め早めに動かねばならない。
一番重要なのは、娘についての良い噂が広まることである。
良い噂というのは作ることができず、悪い噂は勝手に広まっていくものだ。
美人で教養があって気立てもよい、という噂が流れれば、おのずと男たちが興味をもってくれるはずだ。
そんな会話を聞いていて、大納言は絶望的な気分に陥った。
人の口に戸は立てられぬとよく言うが、風変わりな胡蝶についての良くない噂は、どうしたところで、おしゃべりな女たちの口を介して広まってしまうにちがいない。
いや、もしかしたら、すでに広まっているのかもしれない。
胡蝶を妻にしてくれる男などいるだろうか。
いないこともないような気がする。
親のひいき目を抜きにしても、たいそう整った愛らしい容姿をしている。
性格も明るく朗らかで嫌味がなく、素直である。
虫のことになると頑固だが。
教養のほうも申し分ない。
有名どころの和歌はだいたい覚えているというし、読み物も好きなようで、よく巻物に熱中しているところ見る。
じっと座って手習いをするのが苦手なので、字はあまり上手くないが、それほどまずいわけでもない。
頭の回転が早く、利発である。
そのぶん口が達者すぎるのが珠に傷だが、それはご愛嬌だ。
「………いい娘なんだがなあ」
ーーー虫遊びさえしなければ。
毛虫にまみれてうっとりしている様を見てしまえば、いくら胡蝶が愛らしいとはいえ、どんな男でもさすがに尻尾を巻いて逃げてしまうだろう。
大納言は再びため息をもらした。
廂を歩いて母屋へと近づいていくと、いつものように、胡蝶の明るい笑い声と、侍女たちの悲鳴が響いてくる。
「ねえ竹丸、この虫はなんという名なの?」
「それはおけらです」
「こっちは?」
「かまきりですね」
「これは知っているわ、かたつむりよね」
すると、突然すっとんきょうな歌声が聞こえてきた。
「♪かたつむりさんの~、角の上で~、争うのは~、なぜなの~?」
胡蝶が漢詩の一節に奇妙な調子をつけて、楽しげに吟じはじめ、それを聞いた男童たちはおかしそうに大笑いしている。
「さあ、お前たちも一緒に! かたつむりさんの~♪」
「かたつむりさんの~♪」
父大納言は呆れ返って足を止め、少し離れたところから中の様子を窺う。
胡蝶は歌に満足すると、今度は手にのせた虫をじいっと見つめ、それから外にいる男童の一人に声をかけた。
「ねえねえ、いなごって、なんだか竹丸に似ているわね。そう思わない?」
また突拍子もないことを、と大納言は閉口する。
しかし胡蝶の声は真剣だった。
「やっぱり似ているわ。よし、いいこと思いついた。今日から竹丸のことは『いなご麻呂』と呼びましょう!」
ええっと不満げな声をあげた竹丸をよそに、胡蝶はこの新しい遊びに熱中しはじめる。
「そういえば光郎はおけらみたいな顔をしているじゃない。お前は今日から『けら男』ね」
男童たちに次々と、ひきがえるの『ひき麻呂』、『とんぼ彦』、『かまきり助』、『みの太郎』などと珍妙な名をつけていく娘を、大納言は泣きたいような心持ちで見つめた。
無駄だとは思うものの、やはりこのままではいかんと思い立ち、娘に声をかける。
「胡蝶よ。お前に話がある」
「あら、お父さま、いつの間に」
「お前、そろそろ虫遊びをやめようとは思わないか」
胡蝶がきょとんとして、御簾ごしに父を見つめた。
「どうしたの、急に? やめる必要なんてないわ」
「しかしなあ、もう裳着も終えた立派な成人女性だというのに、いつまでもそんなふうでは、お婿さんが来てくれないよ」
胡蝶がおかしそうに笑いをもらして口許をおさえる。
「あらあ、いやだわ、お父さま。お婿さんだなんて! 私、まだ十四歳よ?」
「まだではない。お前と同じ年でも、もう結婚している娘はたくさんいるんだぞ」
「それは早まったとしか思えないわね。生き急いでいるんだわ。私は、結婚なんてぜんぜん考えられない」
父大納言はもどかしそうに座り直した。
「そうは言ってもなあ。ぼんやりしていると婚期を逃して、一生ひとり身ということにもなりかねんぞ。そんな人生は寂しいぞ」
「あら、そのときはそのときよ。私、虫たちさえいてくれたら、寂しくなんかないもの」
胡蝶はそう言って、ふたたび虫たちと戯れはじめた。
(やはり、この子を変えるのは無理だ)
大納言はどんよりとして立ち上がる。
それから考えを巡らせた。
(そうだ、この胡蝶の虫好きが治るはずもない。
たとえそれを隠してうまいこと結婚させたとしても、すぐにばれてしまうだろう。そうなれば、胡蝶は見捨てられてしまう。
ああ、それだけはだめだ。可愛い胡蝶をそんな目に遭わせるわけにはいかない)
ぐるぐると思い悩んだすえ、父はあることを思いついた。
(そうだ! いっそのこと、虫遊びを笑って許してくれるような、心の広い男と結婚させればよいのだ。
都は広い。風変わりな姫を好んでくれるような男の一人や二人、いるだろう。
ふつうの大人しい姫では飽き足りないという物好きな貴公子を狙えばいいのだ。
こういう変わり者の姫がいるという噂を、あえて流してみよう)
*
「ああ、雨の夜の宿直というのは、本当に退屈だなあ」
脇息にもたれかかり、扇をもてあそびながらぼやく若い男が一人。
今をときめく左大臣の御曹司で、その名を清光という。
物怖じせず愛嬌があり、人好きのする男で、将来を期待されている貴公子の筆頭である。
「おい、だれか、何か面白い話でもしてくれないか」
宿直所に集い、ひまつぶしに双六などをしていた若い貴公子たちに清光が声をかけると、一人が顔を上げた。
「清光どの、こんな噂を聞いたことがありますか」
清光はにやりと笑い、男のもとににじりよった。
「基常どの、なにか知っているようだな。どれ、聞かせてくれ」
「私もつい先日聞いたばかりなのですが……」
基常がある噂を語って聞かせると、清光はぱっと目を輝かせた。
「なんだって? 大納言どのの娘御で、虫をこよなく愛する姫君がいると?」
「ええ、そうらしいのです。なんでも、化粧も歯黒めもせずに、一日中毛虫と戯れているのだとか」
清光が感嘆の息をもらす。
「なんとまあ、風変わりな姫もいたことよ。そのような女、見たことも聞いたこともない。なかなか興味深いではないか」
「でも、毛虫ですよ? 気味が悪いではありませんか。しかも、毛虫だけではなく、あらゆる虫をとってこさせてはじいっと眺めているのだとか」
「ふむ、毛虫だけではなく、あらゆる虫を、ねえ………」
清光は何事かを考え込むように宙を見つめていたが、しばらくして、ぽんと手を打った。
「いいことを思いついたぞ。その姫君に文を送ってみようではないか!」
二人のやりとりを聞いていたまわりの貴公子たちが弾かれたように顔を上げた。
「清光どの、なにをおっしゃる」
「毛虫姫に文など……」
周囲の驚きをよそに、清光は楽しげに笑う。
「ははは、毛虫姫とはよく言ったものだ」
基常が呆れたように肩をすくめた。
「清光どのは本当に物好きですなあ」
「そうかな。いや、俺はね、大人しいだけのお人形みたいな女たちには、どうも飽き飽きしていたんだよ。話していてもつまらないだろう?」
「だからと言って、虫遊びに興じる姫など………」
「なんとも目新しいじゃないか、虫めづる姫君、なんてね」
清光はそう言って、身につけていた立派な帯をするりとほどき、なにやら細工をしはじめた。